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日本映画のススメ Vol1 俳優・高倉健×監督・降旗康男 「あなたへ」公開記念特集 INTERVIEW 降旗康男監督が語る高倉健との仕事 20本の映画が培ったもの

誕生秘話「新網走番外地」「それが東映なんだよ」

ここから降旗&高倉コンビの映画が始まった。降旗康男が東映を離れてフリーになるまで、高倉健と組んだ作品は11本。そのうち6本が「新網走番外地」シリーズ(68~72年)である。

『網走番外地』はさっきも言ったように植木さんと石井さん、健さんのなかがうまくいかなくなってやめたシリーズです。でも会社としては続けたい。一方で、当時の東映には監督会というのがあって、そのメンバーである石井輝男さんが喧嘩してやめさせられた形ですから、監督会の人間としてはその後を引き受けるわけにはいかない。まず僕のところに新シリーズの話が来ましたけれど断って、当時助監督だった伊藤俊也や澤井信一郎にも話がいったけれど、彼らも断った。そこで、『網走番外地』は大泉の東京撮影所で作っていたシリーズでしたが、俊藤浩滋さんに委ねたんです。俊藤さんは、ベテランのマキノ雅弘さんのところへ話を持っていって新シリーズを立ち上げた。次からは“1本作ったんだから、もう誰がやっても同じだろう”ということで、僕にお鉢が回ってきたわけです」

ただ最初のころはパターン化されたシリーズの内容に、降旗監督はあまり乗っていなかったようだ。

「新シリーズの2本目『新網走番外地 流人岬の血斗』の時、脚本を読んだら1作目と同じなんですね。今治の造船所へロケに出かけたんですけれど、お話としてはどうしようもない。それで健さんの囚人仲間をやった、由利徹さんと南利明さんに“なんでもいいからアドリブをやってくれ”とお願いして。いいアドリブが出てくるまで、何回もテストをやったんです。それであの映画は、ほぼ全編アドリブで作りました。終わってから俊藤さんに“もう、こんなことはやめましょうね”と言ったら、次の作品は僕らが作ったアドリブを真似た脚本だった(笑)。やっていられないと思って、それから『新網走番外地』は脚本なしで、当たりをつけた場所へロケハンに行って、撮影の背景になりそうな場所を探し、それに合わせて脚本を作っていくようにしたんです。そんな状態で撮影は遊びながらやっているわけですから、健さんも楽しんでいてね。ただこういう撮影をしていたのは、東映ならではでしょう。段々他社のスターもシリーズに出てくれるようになったんですけれど、東宝の黒沢年男さんが出た時にね。大雪山で、僕ら撮影隊のキャメラはこちら側にいて、向こう側の山の斜面にいる俳優さんたちに、“何でもいいから、こっち側へ走ってきてください”と指示を出したんですよ。その晩お酒を飲みながら、黒沢さんが“僕、こんな撮影初めてです”と言うから、“それが東映なんですよ”と言いました(笑)」

いわゆるヒーローものとは一線を画す降旗作品の高倉健

捨て身のならず者

「捨て身のならず者」

©東映

「新網走番外地」を含めた東映時代の降旗作品には、一つの特徴がある。それは主人公のヒーロー色が極端に薄いことだ。例えば「ごろつき無宿」(71年)の主人公は、九州の炭坑で働くことをやめて東京でテキ屋の修行に励む、無学の男である。彼は故郷から母親を呼び寄せて一緒に暮らすことを夢見ており、ラストに殴りこみに行く直前まで、彼の人間的成長物語が綴られていく。いわゆる高倉健のヒーロー・アクションとは一線を画した雰囲気があるのだ。他にも降旗作品の高倉健は、人間的に立派なキャラクターを演じていない。

「そもそも僕が俊藤さんと出会ったのはね、映画監督になって間もない頃。鹿島建設の企業映画を撮らないかと、一作目のプロデューサーから持ちかけられたんです。バジェットは通常の4、5倍というので、これならいろんなことが出来るなと思ったんですけれど、監修として内田吐夢さんが付くと。これにカチンときて、でも正直には言えないから“僕は功成り名遂げた人の映画は、映画じゃないと思う。映画というのは負けたり失敗したり、そういう人を描くのが面白さだと思うんです。だからやめます”と言って断ったんです。そうしたらあるプロデューサーから“そうしたらアウトローのヤクザ映画はお前にぴったりじゃないか。今は俊藤さんが東映を席巻していて、あの人のところでヤクザ映画を撮らないと、監督なんかやっていられないぞ”と言われてね。それで俊藤さんのプロデュースでヤクザ映画を撮り始めたんです。脚本を読んでいるときには感じなかったけれど撮ってみて僕が思ったのは、ヤクザ映画というのは要するに修身の教科書。正しいヤクザというのがいて、これがヤクザだと見せるのがヤクザ映画なんだって。正直、困ったなと思ったんですけれど、俊藤さんの人遣いがうまかったのか、僕があの人に惚れたのか、それからズッとヤクザ映画を撮ることになってしまって。でも僕は、まったく教科書にならない作品ばかり作りました。正しいヤクザなんていないんだから、教科書にはしたくない。義理とか人情なんてことに縛られて行動するんじゃなくて、故郷のおっかさんのためとか、一目惚れした娘のために頑張る男に変えていったんです。製作本数が少なければ“そうじゃない”と言われたんでしょうけれど、当時はほとんどのヤクザ映画が俊藤さんのですから、“たまにはこういうものがあってもいいだろう”くらいの感覚で見てくれていたみたいですね。でもね、振り返ってみると鹿島建設の企業映画を断った時に言ったことは、自分の本音だと思うんですよ。負ける者や失敗する者を描く映画を、僕は今までやってきたんだ」

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profile

降旗康男 (ふるはた・やすお)

1934年、長野県生まれ。57年に東映撮影所に入社。助監督として活躍後、66年「非行少女ヨーコ」で監督デビュー。「駅 STATION」で日本アカデミー賞最優秀作品賞を、「鉄道員(ぽっぽや)」で同賞および同監督賞を受賞している。

高倉健 (たかくら・けん)

1931年、福岡県生まれ。55年、東映第2期ニューフェイスで東映に入社。翌年「電光空手打ち」に主演し、デビューを飾る。以降、東映のスターとして活躍を続け、「非常線」「森と湖のまつり」(58)などを経て、「日本俠客伝」(64〜71)「網走番外地」(65〜67)「新網走番外地」(68〜72)「昭和残俠伝」(65〜72)などのシリーズで任俠映画の一時代を築く。74年の「無宿」を皮切りに他社の作品にも出演。以降の主な作品としてて「新幹線大爆破」(75)「八甲田山」「幸福の黄色いハンカチ」(77)「冬の華」(78)「遙かなる山の呼び声」「動乱」(80)「駅STATION」(81)「居酒屋兆治」(83)「あ・うん」(89)「四十七人の刺客」(94)「鉄道員(ぽっぽや)」(99)「ホタル」(01)などがある。また、「燃える戦場」(70)「ザ・ヤクザ」(74)「ブラック・レイン」(89)「ミスター・ベースボール」(93)「単騎、千里を走る。」(05)など海外でもその名は知られている。77年のキネマ旬報賞ほか、日本アカデミー賞、ブルーリボン賞など主演男優賞の受賞は多数。1998年に紫綬褒章を受章。2006年には文化功労者に選出された。

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