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日本映画のススメ Vol3 吉永小百合主演 「北のカナリアたち」公開記念特集 「北のカナリアたち」で私たちが目撃する、吉永小百合の「微表情」 文=相田冬二

  • 特集1 「北のカナリアたち」作品評
  • 特集2 吉永小百合出演作品ピックアップ

東映創立60周年記念映画として間もなく公開される「北のカナリアたち」。日本最北の地、稚内、サロベツ、利尻島、礼文島を舞台に、衝撃と感動の物語が描き出される本作のヒロインを演じたのは、日本映画界を代表する女優である吉永小百合。今回はこの新作「北のカナリアたち」作品評に加え、過去の吉永小百合出演作品をピックアップします。

「北」と東映と吉永小百合――というイメージから遠く離れて

「北のカナリアたち」

「北のカナリアたち」

2012年11月3日(土・祝)より全国東映系ロードショー

配給:東映

©2012『北のカナリアたち』製作委員会

製作中から、極寒の地で撮影されたことが強調されてきたし、確かに物凄い体感温度の低さのなかでキャストもスタッフも奮闘を重ねていたことを、現地で決して短くはない見学期間を過ごした私は知っている。しかし、そんなことは、映画の本質とは何の関係もない。バックステージなんてものは、DVDの映像特典に任せておけばそれでよいのだし、そもそも、ありきたりの苦労話からいかに遠ざかっているかが、作品の輝きを保証するからだ。

「北」とタイトルに記されただけで、観る者にはある種の情感が派生する。その情感は、この作品が東映という映画会社によるものであることから、むしろ織り込み済み――サブリミナルな効果さえもたらすだろう。「北」と東映と吉永小百合。これらのファクターをつなぐ「天国の駅」「夢千代日記」「北の零年」といった作品が、ヒロインの像をかたちづくる。さらには撮影を手がけるのが名手、木村大作だと聞けば、おそらく「北」の絶景が出現するのだろうと、イメージは半ば確信に近づくはずだ。

2012フジテレビジョン/集英社/東宝/FNS27社

けれども。本物の映画は、観客の柔な想像力を反復などしない。あなたが思った通りのヒロイン像やら極寒の絶景といった、いつかどこかで見たものがなぞられることはない。むしろ「北」の一語は、そうした場所から飛び立つために用意されていると言っていい。

そもそも、吉永小百合に対する観客のイメージとは、いったいどんなものだろう。それは世代によっても異なるだろうし、映画体験の量によっても違ってくるだろう。日活時代の青春スターとしての輝きを何らかのかたちで知るひとであれば、いくら彼女が年齢を重ねていても、「明朗快活」の四文字に集約されるかもしれない。あるいは、前述したような東映の主演作群にリアルタイムで接してきたひとであれば、きわめて日本的な「薄幸」の女性の姿を思い浮かべるかもしれない。あるいはJRなどのコマーシャルでの認識しかないひとであれば、その「透明」なたたずまいに、ある不思議を感じていてもおかしくはない。

逆に言えば、そうしたあらゆる層の幻想を受けとめ、溶け合わせてしまう存在が、吉永小百合だと言ってよい。それはキャリアによって蓄積、増幅されてきたものではなく、もともと有していた素質、性行であると筆者は考えている。

吉永小百合はただの一度も「悲劇のヒロイン」めいた言動を見せない

では、阪本順治監督は「北のカナリアたち」において、どのような吉永小百合を捉えているのだろうか。

結論から言えば、阪本は、無数にある可能性のなかの一点を取り出して、それを鋭利に磨き上げて提示するのではなく(そうした演出的才能には恵まれているにもかかわらず)、満点の星空を眺めるように、点在する吉永小百合の像を、その散らばりのまま、まるごと抱擁する、きわめて大胆なアプローチによって、画面に定着させている。そのため、映像は求心的な方向には向かわず、穏やかな移動によって拡散していく。木村大作のキャメラも決定的な一瞬を捉えるというよりは、過去と現在の交錯によって度々中断される「推移ならざる推移」を追いかけるしかない。そのことが「北」という、ある種、突出したイメージの矛先をやんわり包んでいるとも言えるだろう。

阪本は女性を主人公とした物語を何度か撮っている。だが、たとえば「顔」(それは阪本が描く男たちの変奏曲でもあった)や「魂萌え!」(あたかも「トカレフ」を思わせる女たちの対決の構図)、あるいは「行きずりの街」(ヒロインの小西真奈美をかつてないほど艶かしい地点に到達させた)といった作品で見せてきた、明確な人物像はそこにはない。阪本が「北のカナリアたち」で見つめているのは、ある一定の像にはおさまらない「巨大な影」ともいうべき対象である。

北の島の分校で起きた悲劇。凍結されていたその謎が、20年後に氷解していく様を映画は描く。吉永扮する元教師はその謎の中心に存在し、彼女自身は空洞化しながら、かつての生徒たち6人の「聞き手」としてそこにいる。筋書きだけを追えば、これは「贖罪」と「告白」(原案の湊かなえの作品タイトルを引用する意図があるわけではないが)の物語であり、 主人公は「裁かれる」立場だ。だが、本作の非凡さは、吉永小百合が、ただの一度も「悲劇のヒロイン」めいた言動を見せないことにある。そして、台詞上は己を責める瞬間が彼女にあるにもかかわらず、「誰も断罪しない」という映画の基本姿勢を、吉永の顔そのものが、体現していくことにある。

重要なのは、暴かれる真実ではない。生徒のひとりが漏らす慟哭ではない。先生と教え子たちが流す涙ではない。それら既存のイメージすべてを超越していく吉永小百合の、筆紙に尽くし難い表情の数々である。

名づけようのないそれらを、あえて「微表情」と呼んでみたい。感情を申し伝える一般的な芝居を「水」に、いわゆる無表情を「氷」にたとえるなら、吉永の「微表情」は、「氷が溶け始める」その光景を捉えている。ささやかな、あまりにもささやかな、密閉されたグラデーションを、私たちは目撃することになる。吉永小百合が満島ひかりと語る。吉永小百合が勝地涼と話す。吉永小百合が宮﨑あおいと対峙する。吉永小百合が小池栄子と触れ合う。吉永小百合が松田龍平と距離をとる。吉永小百合が森山未來に接近する。それは、一対一のガチンコ勝負というよりは、吉永小百合という偉大なる「微表情」(考えてみれば、彼女は、ずっとずっと前から、そんな顔を浮かべてきていた)を目の当たりにした彼ら、彼女ら演じ手たちに否応なく起きる「自然現象」のような何かを映し出す。

そこには、北の絶景もなければ、悲劇のヒロインもいない。そんなありきたりのものより、はるかに鮮やかな「出逢い」が待ち受けている。光が強ければ強いほど、影は深くなる。そして、豊かになる。人間の明暗両面の輝きを、阪本順治は、吉永小百合の「微表情」によって、かつてない方法で、視界におさめているのだ。

PROFILE

吉永小百合 (よしなが・さゆり)

東京都出身。1957年ラジオドラマ『赤胴鈴之助』でデビューし、1959年「朝を呼ぶ口笛」で映画初出演。以後、「キューポラのある街」(62年)、「愛と死をみつめて」(64年)、「動乱」(80年)、「時雨の記」(98年)、「北の零年」(05年)、「母べえ」(08年)、「おとうと」(10年)など数多くの映画作品に出演し、1984年度キネマ旬報ベスト・テン主演女優賞(「おはん」「天国の駅」により)ほか数々の主演女優賞を受賞。