東京市渋谷区(現・東京都渋谷区)の生まれ。外務省官吏の父・芳之とピアノ教師の母・和枝の三人姉妹の二女。区立西原小学校5年の1955年、ラジオ東京『赤胴鈴之助』の千葉周作の娘・さゆり役に、同じ名前ということも幸いして選ばれ、芸能界にデビューする。59年、ラジオ東京テレビ(現・TBS)『まぼろし探偵』に出演。同年の松竹「朝を呼ぶ口笛」で、主役の新聞配達の少年を励ます少女に扮して映画デビューを果たす。翌60年には新東宝配給の「まぼろし探偵・地底人襲来」に助演。同年、区立代々木中学を卒業して都立駒場高校に進み、日活に入社する。日活での第1作は、赤木圭一郎主演「拳銃無頼帖」シリーズの第2作「電光石火の男」60で、赤木を慕う少女という脇役だったが、知性と庶民性を併せ持った美少女として注目される。続く赤木主演の「霧笛が俺を呼んでいる」「拳銃無頼帖・不敵に笑う男」では準ヒロイン格に起用され、入社して半年後の11月には「ガラスの中の少女」で早くも主演スターとなった。61年になると彼女の人気は急上昇し、この年だけで16本もの映画に出演するまでになる。その反面、駒場高校に通学できなくなり、同年1月に精華高校に転校を余儀なくされた。16作品の内訳は大きくふたつに分類できる。ひとつは宍戸錠主演「早射ち野郎」、和田浩治主演「闇に流れる口笛」、小林旭主演「黒い傷跡のブルース」などといったアクション映画。もうひとつは「あいつと私」などの石坂洋次郎原作を映画化した青春映画である。彼女の持つ庶民性と純情さとが、青春映画とマッチすると同時に彼女の人気もうなぎ昇り。ファンは“サユリスト”と呼ばれるようになり、一種の社会現象となった。そんな彼女の人気と演技の部分が確定されたのは、浦山桐郎監督の青春映画「キューポラのある街」62への出演であった。鋳物職人の娘・ジュンに扮して、貧しさにめげず生きていく少女を好演するとともに、貧困、朝鮮の問題にも言及した社会派作品として高く評価された作品でもあった。これでブルーリボン賞主演女優賞を受賞。「赤い蕾と白い花」の主題歌『寒い朝』で歌手としてもデビューし、大ヒットを飛ばす。さらに橋幸夫とのデュエット『いつでも夢を』も大ヒットし、62年度の日本レコード大賞を受賞。NHK『紅白歌合戦』にも初出場した。63年から64年までは、浜田光夫との共演を中心とした青春映画のヒロインとして安定した活動を続ける。ここでも石坂作品の映画化が目立ち、「青い山脈」「雨の中に消えて」「美しい暦」「光る海」63、「こんにちは20歳」「風と樹と空と」64、「悲しき別れの歌」65などに出演。ほかに川端康成原作の四度目の映画化となる「伊豆の踊子」63、三島由紀夫原作の再映画化「潮騒」64、大佛次郎原作の再映画化「帰郷」64のような文芸作にも多数出演した。また斎藤武市監督「愛と死をみつめて」64では軟骨肉腫という不治の病に冒された少女を演じ、大ヒットさせる。
一方、私生活では芸能活動に妨げられて精華高校を卒業できず、65年に早稲田大学独自の入学資格認定試験を受験して合格。次いで本試験に挑戦して、第二文学部史学科に入学した。しかし、この大学進学は青春の象徴としての彼女の地位が揺らぎ始める兆候ともなったのである。当時の日活は東映任俠映画に追随したやくざ映画や、ニュー・アクションの台頭、そしてポルノまがいの作品に移行しつつある時期で、彼女の出番は次第に少なくなっていく。結局、他社出演ができず、テレビに活路を見出すようになって、日本テレビ『吉永小百合ショ—』66、TBS『娘たちはいま』67などで印象を残すが、映画は相変わらずの石坂原作「青春の海」67、「だれの椅子?」68などのヒロインばかりで、他社作品で大きく飛躍するチャンスを逸したことが惜しまれた。69年に大学を卒業。卒業論文は『アイスキュロス“縛られたプロメテウス”とアテナイ民主政についての一考察』であった。同年3月13日、24歳の誕生日の席上で、父・芳之が代表をつとめる吉永事務所は、彼女自身の企画による第1回自主製作作品として、山本茂美原作『あゝ野麦峠』を内田吐夢監督で映画化する企画を発表したが、これも挫折。この辺りに父親以外に良き助言者、協力者を持たなかった彼女の悲劇があった。同年10月、日活との間に優先契約が成立。これによって彼女は他社出演の自由を獲得し、その結果、70年には中村プロ「幕末」、松竹「風の慕情」に出演した。さらにこの年、NHK大河ドラマ『樅の木は残った』で原田甲斐(平幹二朗)を慕う娘・宇乃、TBS東芝日曜劇場『下町の娘』70で下町娘を演じて、茶の間での人気は出てきたが、それは同時に映画スターとしての光背を失っていく過程でもあった。ほか、TBS『白雪姫と七人の悪党たち』71、日本テレビ『花は花よめ』71、フジテレビ『愛のはじまるとき』73などに主演。その間、映画は日活の山本薩夫監督「戦争と人間/第二部・愛と悲しみの山河」71、「同/完結篇」73で伍代財閥の娘・順子に扮した。そして松竹の山田洋次監督「男はつらいよ・柴又慕情」72では9代目のマドンナを演じている。73年8月3日、『愛のはじまるとき』のディレクター・岡田太郎と結婚(入籍は同年6月28日)。あの吉永小百合が15歳も年上の男性と結婚、ということで大きな話題を集め、しかも、彼女の両親の全面的な賛成を得られなかったとも言われた。1年ほど女優活動を休止したが、翌74年夏にTBS東芝日曜劇場『下町の女』から復帰し、松竹「男はつらいよ・寅次郎恋やつれ」で再びマドンナ役を演じて、前作「柴又慕情」72よりも明らかにふっきれた芝居を見せた。75年には浦山監督「青春の門」で炭鉱夫(仲代達矢)の後妻で主人公(田中健)を育てるタエに扮し、小百合にしては大胆な“おとなの女”としてのシーンも話題となった。80年の森谷司郎監督「動乱」では2・26事件のリーダー宮城大尉(高倉健)の妻に扮し、自然なお色気を出して結婚が彼女の芸能生活に好影響を与えたことを感じさせ、80年代を迎えるのである。そして81年、吉永にとって生涯の代表作と出会う。それがNHK『ドラマ人間模様』で放送された、早坂暁脚本、深町幸男演出の『夢千代日記』である。ひなびた温泉街を舞台に、身を寄せ合うように生きる幸薄い人々の哀歓を描いた人間ドラマの秀作で、主人公の芸者・夢千代に扮した。被爆二世の夢千代は常に死の恐怖に脅えながら、今この時を精いっぱい生きている。芸者姿の吉永が美しく、視聴率も平均20%を越え、82年に『続』、84年に『新』が制作された。85年には浦山監督の手によって映画化され、シリーズの完結篇として、被爆した夢千代が遂に命を散らすまでを描いた。その間の83年、初めて組んだ市川崑監督の「細雪」に出演。佐久間良子、岸惠子、古手川祐子と共演し、寡黙ながらもその清純さの中に強情さを秘めた三女・雪子を、それまでの最高とも言える芝居で好演、成熟した女優としての地位を確実なものにした。これを機に、再び映画界の中心へ舞い戻った彼女は、翌84年、出目昌伸監督「天国の駅」で初の汚れ役を演じる。夫ふたりを殺害し逃亡の末に死刑となるヒロインに挑戦。この年は再び市川監督と組んだ宇野千代原作「おはん」にも主演し、キネマ旬報賞、毎日映画コンクール、日本アカデミー賞などの主演女優賞を受賞する。87年の市川監督「映画女優」では、田中絹代をモデルとした大女優の、決して私生活では幸福ではなかった半生を熱演。深作欣二監督の東映「華の乱」88では激しい愛に生きた与謝野晶子を演じ、二度目の日本アカデミー賞最優秀主演女優賞を獲得する。以降は映画出演が徐々に減少していくが、大女優の作品がほとんど製作されない不振の映画界にあって、吉永小百合の名はなお輝き続け、意欲作に出演を続ける。坂東玉三郎監督「外科室」92は、手術を受ける不可思議な伯爵夫人を描いたミステリー。舛田利雄監督のラブ・サスペンス「天国の大罪」92では女検事に扮し、再び坂東監督の「夢の女」93では娘のために身を粉にして働く女郎、大林宣彦監督「女ざかり」94(毎日映画コンクール主演女優賞)では新聞の論説委員に扮し、男社会の中で必死に生きる女性を力演している。96年の出目監督「霧の子午線」では岩下志麻と初共演。女同士の絆と葛藤を演じる。澤井信一郎監督「時雨の記」98では渡哲也と「愛と死の記録」以来29年ぶりに共演して、おとなの恋を切なく描いた。次いで、深町幸男の映画監督デビュー作「長崎ぶらぶら節」00でも渡との共演が続き、長崎の旧い歌を探索する学者に惚れる芸者を演じる。同作で三度目の日本アカデミー賞最優秀主演女優賞を受賞。2001年には、ベテラン演出家・堀川とんこうのこれも映画監督デビュー作となる「千年の恋・ひかる源氏物語」01で、“夢”の光源氏(天海祐希)に対して“現実”の紫式部を演じた。05年の行定勲監督「北の零年」05は明治初期の北海道を舞台に、運命に翻弄されながら自分たちの国を作ろうと労働する人々を描いた大作で、彼女は主人公・渡辺謙の妻で夫が失踪したあとも黙々と国づくりに励む女性を力演。四度目となる日本アカデミー賞最優秀主演女優賞を受賞した。山田洋次監督「母べえ」08では、時代と戦争に翻弄されながらも強く生きていく情愛深い家族の大黒柱となる母親役。続けて山田監督と組んだ「おとうと」09でも自分勝手な風来坊の弟(笑福亭鶴瓶)に振り回されるしっかりものの姉を余裕を持って演じている。堤幸彦監督「まぼろしの邪馬台国」08では、原作者でもある盲目の郷土研究家・宮崎康平(竹中直人)の妻に扮し、夫唱婦随で人生を歩む夫婦愛の美しさを描いた。また『夢千代日記』で体内被曝の芸者を演じた縁で、以来『原爆詩集』の朗読会を続けており、NHKでドキュメンタリー『吉永小百合/被爆65年の広島・長崎』10も放送されるなど、この活動は彼女にとってのライフワークとなっている。自身が敗戦の年に生まれたことも影響しており、“戦後何年”という数字が自分の年齢と重なっている運命的な仕事でもある。戦後の日本とともに歩んできた彼女らしい行為と言えるのかもしれない。