パスワードを忘れた方はこちら
※各情報を公開しているユーザーの方のみ検索可能です。
メールアドレスをご入力ください。 入力されたメールアドレス宛にパスワードの再設定のお知らせメールが送信されます。
パスワードを再設定いただくためのお知らせメールをお送りしております。
メールをご覧いただきましてパスワードの再設定を行ってください。 本設定は72時間以内にお願い致します。
戻る
公開年:
現在の文字数:0文字
氏名(任意)
数多く登場する“少年”たちの中には、〈EXILE〉系のマッチョな“男”も少なくない。人気アイドルグループになるまでには、努力はもちろんのこと、かなりの歳月も要するということで、グループアイドルの高齢化(!?)を実感したり。それにしても本木監督がミュージカル映画まで撮るとは意外だった。ジャニーズの人気ステージの映画化だそうだが、少年たちの収監服を色分けしてのダンスバトルは、カメラ移動も面白く、それなりに楽しめる。でも一番の見所は旧奈良監獄でのロケ。
台詞しか聞こえてこないまっ黒な画面がかなり長く続く。その間、こちらは、耳からの情報で無意識的にイメージを固めているワケだが、画面に何も映らないことの目のやり場に戸惑いつつ、さりげなく意地の悪い冒頭のこの仕掛けに、映画を観ることの“観る”を実感したり。にしても全盲で映画を撮ろうとする加藤秀幸の言葉と手、更に全身を使っての挑戦と、プロの映像スタッフたちとの真剣なやり取りは、ある種、キワモノ的ドキュになりかねない壁を鮮やかに突破、完成作も楽しめる。
なんだァ、現役の女子高生バンド“DROP DOLL”の3人は、ほとんど前座扱いじゃないの。しっかりそれぞれの役を演じ、歌って演奏しているのに、物語のトリ(真打ち)は、音楽と仲間から離れていた山本涼介の意地だかプライドっていうのだから、肩すかしもいいところ。本気で音楽をやりたい少女たちに比べたら、一度はバンドを解散した男子たちのゴタクや言い訳などただ面倒臭いだけ、あっちでやってよ。バンドパフォーマンスにしても、DROP DOLLの方が断然上等!!
監督本人が特異な環境に育った自分を素材にして、そこで出会った人々の現在を描きつつ、家族のありようを問う……。聞けばもとは大学の卒業制作だったとか。確かにチラシで募集した見ず知らずの保育人に育てられたという体験は記録ものだろうが、どうも表面的で突っ込み不足、いいとこ撮りのプライベート・フィルムの印象も。もし全く別の人がこの素材を撮っていたら、もっとリアルで生臭いドキュメンタリーになったと思うが、当事者の加納監督、当時を単純に懐かしむだけ。
驚いた。ジャニーズ自体が監獄みたいだと自分たちで言っちゃうのかと。あと反抗やアウトローということが記号と化してることにもめまいが。そしてこれはそんなに変でもないが、刑務所ものでありながらごく自然に男色の気配が欠落してること。その清潔さ、男性の暴力性の去勢がかの巨大カンパニーの人気の秘密だろうが。抜群な出演者らのフィジカル、それを捉える八十年代歌番組的撮影。幾重もの独自文化に包まれたジャニー氏の遺言。“少年たち”がそれをどう思うかは知らない。
舞台挨拶つきの試写で監督が、皆さん勘違いしちゃいけない、これは視覚障碍者が頑張る映画ではなく彼に関わった健常者が頑張る映画です、と言って客席を笑わせていたが、ある意味そのとおりで、視覚がない人間が映画を監督するとなるとスタッフはこういう苦労をする、監督の意図を知る、コミュニケートするのにこれだけ手間がかかるということが描き出される。だが、それができるという発見。どうやればいいかが示された。本作が世界文化史上における何らかの始まりであれと願う。
親がかりの金持ちを、映画のキャラクターとして良い奴だと素直にうけとめるのに抵抗がある。これって世代的なものか。いまのヤングは平然と、ステキ! あんな外車乗り回してる大学生のケツ舐めたい! ってなるのか。まあ本作はそこからもう半歩ほど踏み込んで、そういう恵まれた奴の頑張りとかそいつでも挫折や屈託があるとかやってたけれど。ヒロインの、ドラムの娘が良い。前回の本欄の対象映画「Bの戦場」にも関係あるが、要するに日本映画は“いい女”というものの定義が狭い。
私はこの監督が回顧、検証する彼の母親と共同保育の関係者と同世代なのでその“冒険”(思考や思想上の実験というより、やむにやまれぬ、不可逆なトライであったろうからむしろこう呼びたい)が為されたことに感動する。その結果である彼、監督加納土がこうあることでそれが世に知らされていくことも面白い。登場人物が頻繁に、怖い、と口にしていたことが印象深い。育児、成長の様子、再会……ひとと関わることは怖いものなのだ。だからこそ本作は勇気についての記録でもある。
映画冒頭で展開されるワンシーン・ワンカットのダンス場面は、役者と撮影スタッフの“動き”がシンクロすることで、スピード感と躍動感を生み出しているのが出色。映画だからこそ可能な立体的な構図を導きながら、舞台版同様の“見立て”を観客に強いる演出を施している点も一興。かつて舞台版で主役を演じていた戸塚祥太が本作では“継承”を感じさせる役を演じている点に、作品自体が持つ“継承”という要素を、歴代ジャニーズたちが繰り返してきた“継承”として象徴させている。
映画は視覚的要素を欠くことができない芸術。その是非を確信犯的に題材にしながら、本作は「映画とはいかなるものか」と改めて問うている。完成した作品のみを公開するという手法もあったはずだが、ここでは延々と作品の製作過程をドキュメンタリーとして追いかけている。そのことによって、観客は完成された映像について考え始めるのである。そして、音だけで構成された映画冒頭20分間に脳内で想像したことと、出来上がった映像とにさほど乖離がないことに対して驚愕するのだ。
オープニングの演奏とエンディングの演奏を同じ楽曲でブックエンドにすることで、近似した映像でありながらも主人公の心の変化・成長を感じさせている。また、演奏の練習場面を長めのカットで撮影することによって、役者たちが実際に生み出すグルーヴと、劇中の登場人物たちが物語上で生み出すグルーヴとをシンクロさせている。若手とバイプレイヤーたちとの役作りの差が目立つのは痛恨だが、音楽映画として楽曲の質が高い点、音響効果によって音の方向性を表現している点を評価。
“沈没家族”の当人が大人になり、人生を俯瞰しながら再検証した本作。自身の幼少期のアーカイブ映像がテレビや映画の中にあること自体が特殊であるため、飛び道具的な題材でもある。同時にこのことは、スマホ等の動画撮影機能によって多くの映像素材が保存されていることの意味も再確認させる。つまりは、未来のドキュメンタリー作品のあり方をも垣間見せるからだ。そして「家族の正しいあり方って何だ?」と問いかけながら、「普通って何だ?」という価値観を本作は問うている。