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それにしても“隠れ埼玉県人”への踏み絵が“草加せんべい”とは、泣けるほどおかしい。こう書きながらも笑いが止まらない。ハロウィンのコスプレごっこのような衣裳も、ぶっとんだギャグコメディのビジュアル化として痛快で、宝塚の舞台から抜け出したようなGACKTのナリフリも似合いすぎて笑える。埼玉県人のこれでもかの自虐ネタが、卑下自慢ふうなのも愉快。関東各県の扱いもマジメにふざけていて、それなりにナルホド感がある。ただ関東圏以外の方がどう観るかチト心配。
「岩合光昭の世界ネコ歩き」は、見逃したくないテレビ番組の一つ。ネコ目線の低いカメラワークと“いいコだね”というネコへの声かけが妙に心地よく、いつまでも観ていたくなる。その岩合さんの初映画、やはりというか、人間たちの話はどうでもいいように思えて。いや、大した話があるわけではなく、ネコと暮らすじいちゃんの日常と、ご近所さんのあれこれのエピソードがスケッチ風に描かれるだけなのだが。妻が遺したレシピの再現とか、小ジャレたカフェの話もネコの邪魔、邪魔……。
“神かくし”伝説が残る地方が舞台の青春群像劇で、サスペンスふうな仕掛けがあるところなど、さしずめ又吉直樹版の「スタンド・バイ・ミー」。けれども中学生の話ならまだしも、彼ら5人は高校生で、それにしてはキャラクターもエピソードも幼稚。語り手役の佐野勇斗以外はみな、自分や家族のことで悩んでいるのだが、その悩みも手垢がいっぱい。ある事件が起きての真相もいきなり感が残る。でもでも一番不可解なのは「凛」というタイトルで、又吉サン、何を気張ってんだか。
何でこんなにヤヤコシいラブストーリーを作るんだか。壁の穴から聞こえてくる未来を知る男の声だと。その声に言われるまま、アパートの隣人・高橋一生を尾行して写真を撮るヒロイン。いくら“運命の人”絡みのタイムパラドックスものだといっても、アホらしくて付いていけない。その時間の逆行も何が何やら。家主が趣味で建てたようなアパートや住人たちも浮世離れしていて、一事が万事、ホンキになれない。もっと言えば、いつも遠くを見ているような高橋一生の二枚目演技にも食傷。
首都圏生活感覚がある人間ならわかるネタに基づく、良い意味でナンセンスで大仰なギャグ映画だが、根底には真実恐ろしいものがある。ボリス・ヴィアン『墓に唾をかけろ』を連想。出自に由来する差別への呪詛は犯し、殺しても足りぬだろうし、その復讐者は吊るされる。観ながらGACKTがそこまでやる・やられることまで一瞬想像した。埼玉を本気で蔑むことの奥にはそれがある。この〝埼玉〟は人種、国籍、出身地にも置換しうる。しかし観れば楽しく、振り切った、良いコメディ。
身近な愛玩動物でも猫のほうが犬よりも目鼻口の配置が人間に近く、さらに自発的な行動をすることが認められていて、擬人化だったり人間的な感情の仮託をなしうるところが猫の魅力かなと思われるが本作もそういう猫の可能性が炸裂。老年期生活問題をも扱うがそこで浮上するのは猫の去り方だったり。と、同時に長年猫を撮ってらした方が監督をしてるせいか、そこに還元されない小さな野性動物としての猫アクションのダイナミズムもあった。猫アングル、猫パン、猫移動撮影が多数。
またも青春探偵だが嫌いではない。ティーンにとっては人生がそもそも謎だから。これはラノベ文化がなかった頃は赤川次郎の多作さのなかに紛れて現れたりしていたものだった。本作に関していえばそれにプラス、その少年たちが幾分か容疑者らしかったり、いわゆる信頼できぬ語り手だったりするところがある。全体的に粗いが暗い青春ものは許せる。また吉本興業の映画製作レーベルはもうかなり本数を重ねて成果を生みつつある。それは次回の本欄、二本の女性映画に即して述べたい。
想いびとの命の恩人である謎の未来人をシラノと名指すのは、“シラノ・ド・ベルジュラック”か。なるほど高橋一生のけなげさ、自分はその人物ではないと言う愛想づかしの場面などは非常にロマンチック。常に寝癖のアタマ、おたく的な早口&挙動不審、でありながら高橋一生以外の何者でもないあたりがファンに喜ばれそう。「一週間フレンズ。」と同様また川口春奈が受動的なヒロインをやってるという既視感も。タイムSF恋愛ものつながりで「君と100回目の恋」と二本立て希望。
かつて、区でも市でもない〈郡〉と呼ばれる地域に住んでいた頃、郡内のふたつの町は“海側”と“山側”で仲違いしていた。海側の町民が「田んぼばかりで工場もない田舎」とディスれば、山側の町民は「光化学スモッグで息もでけへん」と反論する。実に不毛であったことを思い出す。その点、本作で描かれる「埼玉に対するディス」は、自嘲することで相手を牽制させているというメカニズムが痛快。またセットや衣裳にこだわることで、魔夜峰央の世界を忠実に映像化している点も秀逸。
“ねこ”は自由奔放だ。そのことを視覚的に表現するように、ドローン、ドリー、手持ちといった手法を駆使。また、“ねこ”の目高や人間の目高にカメラ位置を自由に据え、猫のPOVを実践するなど、撮影手法や構図も自由なのだ。同時に本作は、“ねこ”や“食”を題材にした類いの映画のフリをした社会派作品でもある。コミュニティ機能と長閑な自然が残る離島を舞台にすることで、社会の過疎化、高齢化、医療のあり方などの現実の社会問題を物語の中へ巧妙に滑り込ませているのだ。
須賀健太が演じる大仏は、仲間たちに対して時折“なぞなぞ”を投げかける。その“なぞなぞ”の答えには、設問の中に解答を導く“言葉”が隠されている。表面的には謎に思えるようなことも、実は「答えは既にそこにある」という構造。これは、本作に登場する少年たちの知られざる家庭事情や内面、村に残る“神隠し”伝説の真相のあり方にも似ている。つまり、相手をよく観察し、真摯に向き合ってみれば、〈謎〉などないのだと、最後に投げかける“なぞなぞ”で結実させているのだ。
噴水に落ちたボールを拾う川口春奈。その刹那、彼女の背後で水が噴出するショットは、映画の中の或る登場人物は勿論、観客も彼女に魅了されなければならない。それは、高橋一生演じる平野が“シラノ”となり、観客からも「彼女を見守らねば」という感情を引き出すためである。ボールを持つ手に注視すると、長い指で摑むフォルムの美しさが強調されていることも窺える。また人生を前に進めるため、殻を破ることを卵に暗喩させるなど、劇中に様々なメタファーをちりばめた筆致も一興。