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天皇明仁の生前退位の報道を見ると、皇族や王族に生まれなくて本当にラッキーだったと思う。本作で描かれるヴィクトリア女王もそうだが、特別な階級に生まれても職務に縛られて不自由ばかり。おまけに、政治家や王室職員による権力ゲームにも巻きこまれる。英国ヴィクトリア女王と、19世紀末は植民地だったインドの若者の友情が、階級と文化的なギャップを超えて描かれる。喜劇だが、彼を「心の師」のようにして慕う女王の、人の上に立つ者としての孤独と悲壮感も伝わってくる。
文学の世界に限らず「権威」は虚構である。1901年から始まったノーベル文学賞だが、最初の10年は知らない書き手ばかり。それが、いつからか著名人が受賞するようになり、多額の賞金を支払う後ろ盾があらわれ、誰もがほしい賞になっていった。本作ではアメリカ人の小説家の受賞が決まり、妻や息子を連れてストックホルムへ行き、想像通りの授賞式が行われるが、不穏な影がつきまとう。去年が選考委員にまつわる疑惑のため不開催に終わったことを考えると、タイムリーな作品である。
ときどき、日本社会で生きていくこと自体に絶望感をおぼえる。「ここではない場所」ばかりが輝かしく見えるのだが、人びとがうわべの豊かさに飛びつき、互いに監視しあって心を病み、家族や友人関係が内側から崩壊しているのは、香港でも同じかもしれない。父と躁鬱病を病んだ息子が暮らす、ひとつのフロアを区切って貸しだす劏房のせまい部屋と二段ベッドには驚かされる。だが古くはドヤ街、近年ではネットカフェと比べてみれば、その閉塞感は私たちと無関係ではないのだ。
本作を見ながら、70歳過ぎの老母のことを考えていた。両親は40年以上連れ添っているが、ある日、入院や死や収監で夫を奪われたら、このような生活ではないだろうか、と。監督はわかりやすい会話や物語を捨てて、シャーロット・ランプリングの存在感と映像によって語ることを選んだのだと思う。主人公がパートに行って、演劇教室やプールに行くだけの日常を描いているのに、キレのいいカット割と周囲の光景を巻きこむカメラワークが、言葉にならない彼女の感情の襞を表現している。
「Queen Victoria 至上の恋」のその後の、晩年の女王を描いたこの映画、ジュディ・デンチが継続して女王を演じたことを含め、しつらえが手堅い。俗な言い方をすれば、前作で従僕との間に相互に流れた情愛は、今作では優しくされることが嬉しい老女王に。夫君に続いて従僕に先立たれた寂しさに加齢もあっただろうが、そこに見事に取り入った、ハンサムなインド人の従僕の描き方も面白い。二人に振り回される英王室といった図式だが、監督S・フリアーズの通俗の混ぜ込み方がうまい。
夫がノーベル文学賞を獲ったとなると、この上なくめでたい。だが、妻のゴーストライティングだったら……。内助の功は確かに愛情であり、主題はずばり愛と献身。出版界や文壇が男性社会だった過去も描いた物語から見えるのは、女性はややもすると結婚で才能や機会を、自ら諦めてしまいかねないということ。達者な俳優の共演でドラマの安定感に申し分はなく、祝福の声をかけられるたびに見せるクローズの複雑微妙な表情が主題を象徴。そして妻の決断は無論、単に過去の否定ではない。
母親の介護離職、孤立、母の死、躁鬱病、差別等々。いまや世界の多くの国に共通する社会問題を網羅したこの映画、見ていて苦しくなる。個人の努力ではどうにも出来ないいくつもの難事を抱えた主人公を、完治させる処方箋を安易に提示するのではないから。かといって、周囲の無理解を非難しているのでもない。ショーン・ユーとエリック・ツァン。息子と父親の演技は素晴らしいし、母や婚約者、アパートの住人のキャラの立て方もうまく、監督の新人らしからぬ終始冷静な演出を評価。
S・ランプリングの新作とくれば、〝どんな女性を演じているか〟の期待が募る。今回は孤独の闇を知覚した高齢の女性。つましい一人暮らしで、息子にきっぱり拒絶され、まるでカメラに感情をぶつけるように、号泣するシーンは衝撃的。説明のセリフも描写も最小限に止めたこのドラマで、ランプリングは若くない肉体を晒して、一人で生きる冷え冷えとした孤立感、そして生き直す強さを創造した。気配から闇へと、グラデーションのように濃くなる孤独感。女優と監督の信頼感が画面に溢れる。
かつての欧州貴族にとって愛人やソウルメイト的な親友を作ることは一つの文化的風習であったと聞く。本作で描かれている女王とインド人青年との関係も、それに属するものとしてとらえることもできそうだが、ジュディ・デンチ演じる女王がほとんどキャラクター化しているのと、相手の青年がターバン姿でこれまたキャラクター的ないでたちなので、恋愛なのか友情なのか利害なのか、そのどれもである関係ゆえの喜劇と悲劇が、ひどく滑稽に見える。そしてそれは実際そういうものなのだろう。
8年末に邦訳が出版された『82年生まれ、キム・ジヨン』は、女性が生きることの困難さを極めて冷静な筆致で掬い上げ、韓国では映画化も決定している。47年生まれのグレン・クローズが演じた本作のヒロインから事態は今でもほとんど変わっていない。劇中でクローズが幾度となく見せる、怒りと悲しみを理性でくるんだような複雑な表情がすべてを物語る。タイトルは原題のほうがいい。これは特殊な夫婦のケースではなく、すべての女性、そして「妻」という存在についての映画だからだ。
独立派の政党に圧力がかかり、大陸の影響下で自由が脅かされている昨今の香港。そんな気配の迫る片隅に生きる父子の物語。母親の介護に疲れ躁うつ病になり、社会のレールから脱落した主人公トンを取り巻く状況は、決して他人ごとではない。再就職も恋人との復縁も上手くいかず、病気を再発するトンに救いの手を差し伸べたい気持ちと、彼に関わる人々への同情は、まったく等価だ。そのとき家族はいかに機能すべきなのか。香港の町の底をどろりとたゆたうような波多野裕介の音楽がいい。
劇中でほとんど言葉を発しないシャーロット・ランプリング。その胸の内を探るため、彼女の一挙手一投足を見守る、息を詰めるようなスリリングな時間が至福。静かな彼女の生活をじわじわととらえる孤独と喪失を表現した音の演出がすごい。演劇ワークショップでの発声練習は奇声レベルだし、普段乗り降りする地下鉄の扉の開閉や水音など、ちょっとした生活音が人生を脅かす暴力のように響く。そこに投げ出されたランプリングの裸体が、かろうじて彼女の存在を現実に刻み付けるのだ。