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聞けば脚本が完成するまでに4年ほどかかったそうだが、結果として「万引き家族」の二番煎じに近い、〝窃盗家族〟になっている。いや、たとえ「万引き家族」が先行しなかったとしても、設定や背景、人物にムリヤリ感があり、ストーリーにおけるその方便が観ているこちらにストンと落ちてこない。家族のため、弱者のためなら犯罪も、というのだが、社会の不条理や不公正さを俎上に乗せるのなら、頭ごなしではなくもっと足元から描くべきだ。ガランとした田舎町が舞台なのも実感を欠く。
寒々しく、ものものしく、いかがわしく、謎めいているが、映画が始まってすぐに〝当たり〟をつけたら、まさにドンピシャで、騙されるまでもなかった。被害者が結果として加害者だったというのはミステリーでは珍しくないし、記憶の一部欠落も防衛本能としてよく使われる手法で、そういう意味でこの脚本、底が割れている。但しこれが長篇デビューの甲斐監督、脚本はともかく演出はかなり達者。力のある俳優をカムフラージュ役に使うとか、度胸もある。それと別人のような夏川結衣!!
娯楽映画としての後味が微妙。主人公兼任で狂言回しを演じている野村萬斎の、歌舞伎仕立ての大仰な表情や口調が周囲の空気を乱していて、まるで独りパロディのよう。札付きのグータラ社員という役どころ。そんな彼が引き金となって、芋蔓式に会社の、そして親会社の悪事や欺瞞が露呈するというのだが、このくだりもまんまパロディ。しかもキャラクターも安っぽい。営業と経理部の子どもじみた確執や、ドーナツの無人販売騒ぎも観ていてこっ恥ずかしい。豪華な男優人も無駄使い。
3人の男たちそれぞれに、妻役の池脇千鶴に、この町の人々やここに流れる時間に、気が付いたらしっかり同化、映画に向かって挨拶したくなった。特にオレたちは正三角形だと言いながら、二等辺三角形の底辺という立場で稲垣吾郎と長谷川博己をさりげなく支えている渋川清彦。渋川と父親役・石橋蓮司とのやりとりなど、もう絶品。阪本映画特有のガムシャラ性が健在なのも嬉しい。タイトルからも伝わってくる、生きるということの羞恥心もみごと。久々に味わう日本映画の秀作だ。
流麗な映像と陰鬱な出来事、泥臭く愚直な世界認識の主人公たち。一貫してそういう映画をつくっている監督藤井道人をひそかに応援しているが、本作、これはいったんじゃないか。昨年の話題作のひとつ「空飛ぶタイヤ」と同様の自動車の欠陥告発、リコール隠し、大企業対町の小さな会社(ほとんど個人)というネタがあるが、本作のほうの弱者が犯罪で抗しようとすることのヒリヒリ感と毒と狂気、〝蟷螂の斧〟感は苦い。敗残に甘えるのでなくそれは観客に渡される。広く観られてほしい。
先日この欄のために観たオーガニック的な映画に関して興味深かったことはそれに出てくる農家酪農家漁師の役の俳優が一人を除いていわゆるイケメンではなかったこと。第一次産業顔とか第三次産業顔というものがあるのか。どうやらある。その点本作の役者は全員持続可能な存在感を湛えている。吉澤健、坂本長利をはじめ誰だかわからず味のある老人だなーと見ていて途中で気づいて納得。生の暗い面、思い出したくもない忌まわしいものをこそ映画は描いてほしい。それは叶っていた。
欠陥品とリコールについてチャック・パラニューク『ファイト・クラブ』によれば、流通する製品数(A)に推定される欠陥発生率(B)をかけ、さらに一件あたりの平均示談額(C)をかけたA×B×C=X、の、このXがリコールをしない場合のコストでXがリコールのコストを上回ればリコールがされ、下回ればされない、とある。これに日本的な肉付け(隠蔽など)をしたものが池井戸小説の世界であり、あともう少し世か人に事あらばこれは恐るべきリアル社会派として立ち上がる。
あるキャラクターがアリかナシか、成立するかどうかはピンポイントなこと、そのポイントの純度の高さだと思う。クレイグ・トーマスの小説『ファイアフォックス』でソ連にミグを盗みに来た米空軍パイロットミッチェル・ガントがあまりにもキョドッた男なので協力者たちは訝しむが、誰かが彼に、あんたはあれに乗って飛びたいか、と問うとガントは激しい渇望を表し、質問者は、ああこいつなのだ、と了解する。炭焼き窯の炎を見つめる稲垣吾郎の黒々と光る瞳にそれと同じものを見た。
人間の二面性ともいえる善と悪の境界性が曖昧であることを、復讐の是非を問うことによって描いた本作は、あえて明確な答えを提示しない。ここで描かれているのは、醜聞に対する好奇の視線や血縁に依らない家族関係のあり方、あるいは格差社会の現実や現行法の限界など多岐にわたる。さらには、印象的に登場する風力発電の巨大な風車がエネルギー問題をも感じさせ、風車の回転の有無は物語とも同期させている。そして企画の背景は、役者にとって望ましい企画が少ない現状をも物語る。
作品の舞台はいくつかの理由によって〈冬〉でなければならないと思わせる。例えば、降り積もる〈雪〉。重要な何かを覆い隠しながら、季節の変化によってその姿を消してゆくことで、時の経過により薄れゆく〈記憶〉のメタファーになっている。同時に〈雪〉は、血を想起させる〈赤〉を印象付けるためのモチーフでもある。また厳しい寒さは、人を屋内へと追いやる作劇上の装置として機能。そしてエンドロールの書体は、登場人物たちと同様に何かが〝欠けている〟ことをも表現している。
企業という巨大な組織の中でいち社員ができることは限られている。それでも不正に対して抗い〝千丈の堤も螻蟻の穴を以て潰ゆ〟と信じることが重要であると描きながら、本作は厳しい現実をあえて提示する。「この世から不正はなくならない」という諦念は、日本の企業体質の伝統であるが、この諦念を良しとしない〝鈍感なる不屈〟のあり方を野村萬斎が池井戸節をもって体現。原作のエッセンスを凝縮させたスピード感ある展開、そして社会性とエンタテインメント性のバランスが絶妙。
炭も人も「関係性をじっくりと作り上げることが重要ではないか?」と問いながら、他人の気持ちを汲むことの難しさも提示。阪本順治監督は本作においても、登場人物の立ち位置に高低差を設けることで、各場面におけるイニシアティブのありかを視覚的にも表現。世界と世間、あるいは、都市と地方の乖離を描くことで、「ディア・ハンター」(79)の底辺に流れる精神を日本の地方を舞台に成立させようとしている感もある。無骨な眼差しを放つ市井の人間を演じた稲垣吾郎が素晴らしい。