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「シャイニング」からインスピレーションを得たというプレスの説明に納得。親権問題なぞぶっ飛ばすホラー映画だ。大柄なDV父親と車中という密室で何度も二人きりにされるなど11歳のジュリアンが置かれた恐怖のシチュエーションは震撼必至。自身の存在が息子を脅かすことに気づかぬ父とその状況を甘んじて受け容れる母(哀しい程自己中な両親)、恋に夢(逃避)中の姉、少年は孤立無援である。ラストシーンの、危機を救ってくれた隣人に投げた母親の鋭い一瞥まで、ただただおそろしい。
制作期間35年の大作らしく、ラストシーンが2度ある(!)という複雑怪奇な構成。頭を柔らかくして、拝見すべし(「幸福な国に歴史はない」というフィリピン人の言葉を引用した、本多勝一の名著『マゼランが来た』を読むのも効果的かと)。木彫りのイノシシをヨーヨーで撃退する寸劇があれば「世界はまるでヨーヨーだ」という格言もあり、ジュークボックスの前で陽気に踊る監督の母とエンドロールの歌がリンクしたりと、宇宙に委ねられた自由な世界の帳尻がピタリと合うから不思議。
少年たちが海ではしゃぐシーンの後に、哀しい歌を切々とうたう少年のシーンが続く。光と影の二面性をまだ薄い肩に背負わされた、あの年頃の子供の苦しみに思いを馳せれば、ナディアの覚悟はまさに〝決死〟だろう。彼女のそばにムラド氏がいてくれてよかったと心底思う。ドキュメンタリーゆえに如何ともしがたいが、気になったのはアマル弁護士のファッション(リアルとはそういうものか、とも)。しかしそれ以上に、冒頭のナディアを囲んで写真を撮る男たちの異様な画の意図が知りたい。
正真正銘イ・チャンドン映画(根幹は村上春樹の原作小説に通じる)。だんだんと見やすくなっていくミステリ映画に逆行したい監督の目論見通り、いろいろな読み解き方ができる。「華麗なるギャツビー」「死刑台のエレベーター」などの題材を含め、映画的面白さの詰まった連続的時空間の中、青っぽい闇のトーンに映える夕暮れ、焼かれたビニールハウスの赤。焼けおちる納屋ではなく、激しく燃え上がるビニールハウスが暗喩する正体に思いを馳せれば、ミステリというより青春群像現代劇、か。
冒頭は家庭裁判所の女性判事のバックショットから始まる。窓外を眺めるその姿から、「太陽のめざめ」(15)のような判事目線の社会派映画と思いきや、冒頭の判事はその後まったく登場せず、人を食ったフェイントだ。シリアスな内容を遊戯的に扱いたいらしい。離婚した父親のDV問題を、虚飾を排したリアリズムで淡々と撮っていると思ったら、徐々にサスペンスタッチとなり、あげくにはホラーのようになる。スタイルの変化を楽しめる人とそうでない人で評価が分かれるだろう。
今年77歳となるタヒミックの映画作法はいよいよ無手勝流の極意に達し、本作の製作期間が35年間に及んだのも、本人曰く「宇宙の声を聞いたから」である。500年前のマゼランの世界旅行とタヒミック家の家族史が重なり合い、相異なる時空間が無秩序に(いや「宇宙の声」の秩序どおりに)乱反射する。だから現状の本作とて完成品とは限るまい。O・ウェルズ作品に未完成が多いのは映画史の悲劇だが、タヒミック映画が完成しないのは、愉悦と豊饒に満ちた生命の猶予なのである。
ISによる虐殺と女性の性奴隷化を告発する、すさまじい訴求力を持ったドキュメンタリーだ。構成は簡単で、被害者代表として起ち上がった女性が国連への働きかけに至るひと夏を追うだけだが、この短いスパンにしてこの密度に、見る者は粛然とさせられるだろう。「難民救済基金を起ち上げて援助活動をしよう」という者の提案を、元国際司法検事が「未来を見据えよ」と当座の救済策を否定するシーンは、作品の最も緊迫した局面だ。親密な食事を囲みながらそんな会話がある。
ポン・ジュノ、パク・チャヌクからホン・サンスまで、現代韓国映画界は重軽硬軟と豊かな人材を抱えるが、なかんずくイ・チャンドンの圧倒的な存在感が、本作の登場によって改めて浮き彫りとなった。持てる者と持たざる者の対照性を際立たせつつ、それを単純な憎悪描写で終わらせず、マゾ的な蠱惑が満ちる。ソウル江南区の高級住宅街と、南北分断線の農村を往来し、途上の遺失物をひとつずつ吟味していくような、執拗にして茫漠たる演出。これはテン年代の「牯嶺街少年殺人事件」だ。
父が猟銃をもって母子を襲う。そこを、逃げ追っかけの鬼ごっこにしなかったこの演出。静けさの中にじわじわと怖さが滲みてくる。父親の役者が凄く巧くて、孤独の切なさをちらりちらりと匂わせる。ただのサスペンスではない。追いつめられた少年、それを誰にも明かさない孤独。母も娘も、どこか自己を抱えて生きている。そのみんなの孤独が積もり積もって爆発したようなクライマックス。止めは隣人の老女の寂しさ。人間同士のどうしようもない気持ちのズレ。それが滓のように残って。
恥ずかしながらタヒミック初見参。マゼランと世界一周航海をともにしたフィリピン人奴隷が主人公。さぞかしスケールの大きい画面が展開されると思ったが、裏庭で何やらゴチョゴチョやってる印象。そのかみの8ミリ作品を思い出す。が、そこに映画作りの原点を感じさせ。この監督、愉しみながら映画を撮ってるなあと嬉しくなる。なんか愛嬌があって。一方で欧米の世界観(と映画の作り方)に抗する反骨精神も感じさせ。ただし2時間半超えは長すぎ。時々休憩しつつのんびり眺めたらと。
「バハールの涙」の女たちの武器は銃。ナディアの武器は言葉。ISISの迫害を受けたヤジディ教徒。その虐殺と性被害の実状を訴え続ける。が、事態はなかなか変わらない。人々の反応も様々で。キャメラは失望、焦燥、疲労した彼女の表情も捉えていく。その心の内に入るように。数年ぶりに故郷に帰ったナディア。泣き叫ぶ彼女の顔をちらり見せただけで、そこをクライマックスにしなかった。ここに監督の意志を感じて。闘いは続く。現実の記録を重ねて、一人の女性の不屈の精神を刻み込む。
父親の怒りはボヤ。息子のそれは烈火だった。不条理な怖さがぼんやりと描かれた原作が、ひじょうに具体的になって。その背景には経済優先、格差社会という韓国の社会事情が。ヒロインが魅力的。マイルスのあの曲をバックに彼女がアフリカの踊りを舞う。その画面の哀しく美しいこと。小説家志望の青年の繊細。ビニールハウスを焼くのが趣味という金持ち男。その能面の不気味さ。男の2回目のアクビが青年の殺意を喚起した――この脚本・演出が見事。映画全体が官能に包まれて。感服。