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そういえば以前、〝同情するなら金をくれ〟というドラマの台詞が流行したことがあったが、この映画の難病の主人公は、言いたい放題、好き勝手、わがままを言うことで同情する隙を与えない。実話の映画化だが、難病のプロとでもいったそのキャラに感心してしまう。むろん、わがままといっても日常的な他愛ないことで、手助けをするボランティアの若者たちも、気楽に言い返し。コメディふうの演出と、屈託を見せない寝たきり大泉洋の演技もいい感じ。とはいえ、自立も自由も独りでは。
リアクションに困るドキュである。かつて山形県酒田にあったユニークな映画館についての追想と検証。映画が映画館でしか観られなかった時代の、文化・娯楽基地だった映画館。でもそれを言えば、映画が娯楽のトップだった時代には、サロン付きという酒田の映画館ほどリッパでなくても、誰にでも行きつけの映画館はあったはずで、いちいち言ったらキリがない。当時を知る証言者たちのことばが郷愁と感傷ばかりなのも何だかなー。映画と映画館の密なる関係を知らない人にはいいのかも。
舞台で売り出し中だという秋沢健太朗をアピールするためのプロモーション・ドラマだと割り切って観ても、この設定、この人物、この展開の強引さには鼻白む。しかも監督本人の劇場用映画デビュー作「月とキャベツ」をまで引用し(劇中では「星とレタス」というタイトルに)、さらにあの映画のヒロイン役・真田麻垂美が今回の年上ヒロイン。売れない役者が彼女に一目惚れ、なにかと付きまとい、彼女の方も気を引くそぶり。劇中劇も大袈裟で、後出しジャンケンふうの彼女の秘密も一人よがり。
ドラマ版も作られているそうだが、うーん、この劇場版、映画というより吉本新喜劇の舞台中継でも観ているようで、場面も似たようなシーンばかり。主人公役・博多華丸の目玉と口だけの演技からして芝居のそれだし、彼が〝めんたいこ〟作りに夢中な理由も台詞でアッサリ片付けるだけ。そもそも〝めんたいこ〟作りに精進する場面すらない。ま、主人公を軸にした人情劇と言えないこともないが、戦争の傷跡とかもついでに盛り込んだという感じ。女房役の富田靖子もただ出ているだけだった。
この欄のために観る映画は試写状も題名と日時だけを薄目で確認、予告篇に遭遇しても目をつぶるなどのことをして予備知識カットに努めるので観る前まで本作を「パーフェクト・レボリューション」(原作者・モデル熊篠慶彦)の同一原作者、モデルによる実話寄りバージョンと勘違いしてた。だが通じるものもある。二本立て希望。傲慢にも見えかねない鹿野靖明の意志。不意の怪我や病で健常から滑り落ちたら彼のように強くいられるかと自問させられた。恋愛話、全篇の軽快さも良い。
本作を観、岡田芳郎氏による文献を読んで、不在の主人公、グリーン・ハウス支配人の佐藤久一氏についてその感覚がわかった気がした。彼が実現したサービスはそれ自体が彼の表現であり快感。これには到底及ばないが映画館支配人を三年やった私にはそう思えた。尽くしていると傍目に映る仕事は彼そのものなのでストレス皆無で、ひとが楽しむ姿に勝るリターンはない(ところで大杉漣氏もそういう人だったと思う)。郷愁ではなく映画館や地方文化の未来へのヒントがあるように思えた。
いささか苦しい縮小再生産かとも思われたが「ゴダールの決別」のなかの祈りについての挿話にも似たことが起きていた。それは、曽祖父は困難に直面したときある場所で火を起こし祈りを唱え救われ、祖父の時代は同じ場所で祈りを唱えて救われ、父の代ではもはやその場所に行くことしかできなかったがそれでも救われたという話。「月とキャベツ」という火よりかろうじてでも映画であろうとすることにこそ感じさせられるものがあった。背負うもののある男女の別れの切実さも良かった。
もう何カ月も放映されているドラマを途中の回から観た感じ。クレジット画面や本篇中のセットがまたNHKの連続テレビ小説のようで。……と思っていたらテレビ西日本が制作したドラマの、同じ監督、主要キャスト同一俳優による映画化。だがそのことも悪くないし、けなす理由にもしたくない。何か全篇に好ましいものがある。皆様ご存じの、という口上に続く演者が確信に満ちて見事な場合、ご存じない者は恥じるのみ。第一、富田靖子が「この国の空」を思い出させる良さではないか。
主人公を取り巻く登場人物、取り分け高畑充希が演じるキャラクターの視点を〈一般的な視点〉と設定することで、彼女の心境の変化と観客の感情曲線を同期させている構成の妙。「思い切って人の助けを求める勇気も必要」と描くことで、単なる難病モノとは異なる視点の均衡を持ち合わせている。また徐々に体調が悪化してゆく微妙な変化を演じた大泉洋のアプローチは、順撮りではなく、通常のレギュラー番組もこなしながら挑んでいたのだと考えると、あまりにも平然としていて感嘆する。
〝映画を観たという過去の思い出を語る時、多くの映画ファンは「どこどこの映画館で観た」と、劇場の名前を枕にしながら述懐する。つまり、映画と映画を観た場所、ふたつでひとつの思い出になるのだと悟らせる。本作でも映画の思い出は〝グリーン・ハウス〟という映画館の思い出と共に語られている。人間の記憶は複合的に形成される。映画館での鑑賞は自宅での鑑賞とは異なり、劇場への道程、劇場環境や同行した人間関係などが作品の思い出と寄り添いながら、記憶を形成するのである。
本来であれば本篇の評価とは関係ないことだが、本作は「月とキャベツ」(96)で結ばれた〝仲間たちの縁〟によって製作されている。関係ないとはいえ、現在の邦画が「作りたい映画をオリジナル脚本では成立させにくい」という現状にある中で、それを叶える方法は「ある時期に育まれた〝仲間たちの縁〟に頼るしかない」という現実もある。季節を跨いだ或る街並の情景を作品の舞台とすることは篠原哲雄監督作品の特徴のひとつだが、奇しくも困難な製作体制がそのことを実践させている。
明太子なるものは、一粒ではなく一粒一粒が幾つも集まって明太子を形成する。例えば、冒頭の酒盛り、あるいは、山笠。そこには人の姿で溢れ、ひとりひとりの存在が集まって、一つの集合体を形成することを映し出している。つまり、人々が暮らし、集うことで街が形成されている福岡・中洲という街並もまた、明太子のようだと感じさせるのだ。人と人が寄り添いながら生き、そこには人生の機微もある。本作は群像劇としてもそのことを描いている。明太子はまるで人生のようではないか。