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以前、大林宣彦監督が「他人ごとの話が自分ごとになるのが映画の素晴らしいところだ」と語るのを耳にしたことがあるが、この作品の趣里が演じたヒロインに関しては、ただただあっちへ行ってほしい。超自己チューの他力本願女。ウツを抱えているのだが、このヒロインには他人までウツをうつしかねない鬱陶しいパワーがあり、しかもブレない。傷つきやすいくせに他者の痛みには鈍感なこの女を、映画はイイコ、イイコするように撮っているが、こちらにはどうでもイイコの映画だった。
ただの偶然にすぎないのだが、時空を超えた運命の恋と復讐、という設定は、先般公開されたインド映画「マガディーラ/勇者転生」にそっくり。むろん設定は同じでも本作とは全く別種の作品だけに、引き合いに出しても意味はない。にも拘らず書きたくなったのは、本作の時空の扱いとストーリーが牽強付会にすぎるのと、人物たちがあまりにムリヤリ的なキャラだったから。インド映画ではワクワクした設定が、シリアスな本作では独りよがりの悲劇に沈み……。ポルトガルでのロケは美しい。
さすが堤監督、いつか起こるかもしれない奇跡に取り憑かれた母親・篠原涼子をメインにして話を引っ張り最後まで飽きさせない。最先端のIT技術によって〝脳死〟のまま、成長を続ける娘の身体。IT技術は現代の錬金術に近いものがあるから、この少女はいわば現代のフランケンシュタインと言えなくもないが、この映画では逆に母親が怪物化してゆき、その愛と欲とエゴのエスカレートもスリリング。ラストの少年のエピソードもワルくないが、IT技術の後遺症については……考えすぎ?
モノクロ映像にモノローグを入れた演出。拾った銃と迷走する自意識。女。セックス。そしてワケ知りの警官。が、ゴメン。村上虹郎のハードボイルド気取りの幼稚なナルシシズム演技は、演出からしてフィルムノワールごっこのレベルで、しかもあくまでもポーズだけ、その薄っぺらさに体中がムズムズ。そういえばこの「銃」は、今回の東京国際映画祭のスプラッシュ部門の監督賞と、村上虹郎の東京ジェムストーン賞の二つを受賞しているが、何やら各審査員たちが忖度したような。
日本文学およびその影響下にある日本映画の宿痾たる病妻もの。これにはもう飽き飽きし、それへの魅力的な反駁をいつも待ち受けている。本作は見事にそれであった。鬱の同棲相手につきあううちにかつて見たことないほどの鬱になる菅田将暉であるが、なぜその相手の趣里を見捨てないのか。愛というよりむしろ彼は彼女が躁鬱の躁のサイクルになるのを待っているのであった(という映画に見える)。これは斬新。走るときのあのアキレス腱、あの裸体、私も趣里演じる寧子に魅せられた。
すごい。明らかに変な映画だがその変なことをそう変でもないようなふりで、これしかないのですよという風情でやり抜いたことが面白い。18世紀ポルトガルで展開するエリック・ロメールやジャック・リヴェットの古装片の如き前半から、2020年東京オリンピック後の浜松で輪廻転生した前半の登場人物らが繰り広げる60年代晩年期ヒッチコック的サスペンスフル愛憎劇。そしてラストはまさに「散り椿」以上に散り椿。舩橋淳監督は意味不明な映画的野心による賭けに挑み勝利した。
そうきたか。子供の死に抗したい母の思いというメロドラマをベースとしつつSF的ホラー的でもあり面白い。生きているとはどういうことか、魂が存在するかということにも触れるネタ、ストーリー。しかし、というか、なおかつというか「エクソシスト」や「震える舌」、「エンティティー 霊体」「ポルターガイスト」にも近い。「デッドリー・フレンド」や「ペット・セメタリー」のほうがもっと近いか。ただ何か撮り方が違う気もする。レンズフレアやハレーション気味の画は必要か?
ドストエフスキー『罪と罰』ベースの映画というのは世にどれほどあるのか。つい最近久松静児が1953年に撮った「地の果てまで」という原作忠実翻案(脚本は新藤兼人)の〝罪と罰映画〟を観たが、不変かつ普遍を感じた。ブレッソン「スリ」はもちろんスコセッシ「タクシードライバー」などにもラスコリニコフの精神的兄弟がいるわけで。本作は原作からして『罪と罰』インスパイアであり、それが村上虹郎主演、モノクロで、ポルフィーリィがリリー・フランキー。ど真ん中剛速球。
部屋から抜け出せないヒロインには〝やりたいこと〟がない。そして、部屋の外では〝やりたいこと〟をやれないでいる。人生における〝選択肢〟が彼女に無いことは、スーパーの場面や弁当を選ぶ場面がメタファーにもなっている。本谷有希子は句点を用いないことによってヒロインの苛立ちを小説で表現していたが、趣里は言葉のテンポとリズムでそれを表現してみせている。赤き衣を纏った激情の女と不器用な物書きの男というふたりが、「ベティ・ブルー」の男女関係を想起させるのも一興。
柄本佑とアナ・モレイラの交わる〝視線〟。映画の前半と後半で、同じ〝視線〟がカットの積み重ねによって反復されている。ところが、国と時代を越えたふたつの場面では、その〝視線〟が別の意味を持つ点が秀逸。カットの積み重ねがモンタージュを生むが、そこに観客の主観を介在させることでモンタージュを越えた意味を導き出すことを実践しているように見えるのだ。つまり、映画の中で流れる時間を共有する観客の記憶が、18世紀と21世紀の出来事を同等と錯誤させているのである。
脳死と呼ばれる状態になった人の手に、僕はぬくもりを感じ〝死〟という言葉に違和感を覚えたことがある。その感触は今でも憶えていて、娘が脳死状態にあるという現実を受け止められない劇中の夫婦の気持ちを、何となく理解できるのである。脳死に対する考え方は人それぞれなので、当然、映画で描かれていることに対する反応も人それぞれだろう。それでも、助ける命/助かる命をどう優先するのか?ということに対して、時に不気味さを漂わせながら多角的に描いている点は評価したい。
モノクロ・夜・雨・死体、ファーストカットから「困難なことをやるぞ!」という宣言と、製作・奥山和由の名前は〈シネマジャパネスク〉の記憶を蘇らせる。そして、現実と虚構が曖昧な〝父殺し〟を描いた白昼夢のような終幕は、石井隆監督の下で助監督経験のある武正晴監督ならではとも解せるが、その兆候は予め演出されている。例えば、主人公の部屋でステレオから流れてくる音楽。劇中の現実で流れている音楽は、やがて劇伴と融合され、その境界が曖昧になっていることが窺える。