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ケタタマシいロックと真面目にふざけた阿部サダヲ。セットや美術も思いっきり遊んでいて、脇のキャラクターも奇人、変人のつかみ取り。けれど蚊の鳴くような声のヒロインを演じる吉岡里帆が、出番が多いのに最後まで地味というか影が薄く、阿部サダヲひとりが騒ぎまくっているような。三木監督本人によるオリジナル脚本は、キレイごとよりアブナさ先行、業界もの(!?)ふうな毒もあってワルくないが、観客サービスより自分たちが嬉しがって作っているという印象も。疲れたぞタコ!!
監督は「片腕マシンガール」「電人ザボーガー」ほか、ぶっ飛びシネマの達人。ヒロイン役は「寝ても覚めても」で恋に不器用な主人公をスリリングに演じていた唐田えりか。原作は少女漫画でもどこかで大胆なチャブ台返しがと期待したのだが、少女漫画のシバリは甘くないようで、ウーム残念。それでも中川大志が演じるヘマ男くんはいっぱしのストーカー男子に描かれ、母親と2人暮らしの唐田えりかはヤクザの借金取りにアパートのドアをガンガンされ、キラキラのラブ・コメとは一味違う。
若松孝二のピンク映画を初めて観たのは50年近く前の新宿蠍座での特集上映で、むろん独りで意気がって。そうか、当時の若松プロは、こんな人たちが出入りし、こんなふうに映画を作っていたのか。この若松プロに助監督として飛び込んだ吉積めぐみを、〝不思議の国〟に迷い込んだ〝アリス〟よろしく描いているのだが、時代、状況、事件、騒動などを背景にしためぐみの周辺の治外法権的な自由さは、ザックリなりに伝わってきて、どのエピソードもくすぐったい。郷愁にしてないのがいい。
海へ向かうサーファーの後ろ姿。マンションに鳴り響く電話の音。そして無表情でガランとした通路を歩く吉田羊。冒頭の僅か3カットで、いつ、どこで、何があったかを暗示させる演出と編集に拍手を送りたい。サメに襲われて死んだ一人息子に、乾いた感情しか抱けなかった実存主義的な女、いや母親の、10年後の痛みと慟哭。いくつかの短い回想シーンと、原作にはないエピソードを盛り込んでの進行は、まるで他人ごとのように淡々としているが、慟哭に至る演出、演技、映像はもう完璧!!
キャラクターや設定やちりばめた小ネタはいいのに、テンションも、魂の声のボリュームも上がらぬ。本作の主演女優は終盤においてジャニスやクリッシー・ハインドやカルメン・マキのような響きを出せなければいけなかった。リアルにはできないとしても、ブレイク・エドワーズの「ビクター/ビクトリア」でのジュリー・アンドリュースの特技(ファルセットでガラスを割る)(クラウス・キンスキーは実際に叫び声でガラスを割ることが出来たそうだ)みたいなものがあってもよかった。
正直こういうキラキラ青春映画のメディアミックスについて追いきれていないことが多く精密な批評としてはドラマ版と比較してどうだということも言うべきなのでしょうが本作についてはそれを果たせません。しかしこういうものの長く組んできたキャスト陣の醸すブラットパック感とでもいうべき連帯感はわかるし、良いなと思います。あとタイトルに反してこれはヘタレ男子のジタバタとかっこ悪さと覚悟の物語であり、私の知る監督井口昇はその切なさを謳うのに適任の作り手ではある。
テンション上がりっぱなし。若松プロ版「24アワー・パーティ・ピープル」もしくは「ストレイト・アウタ・ピンク映画」。本作作り手たちと同様?、私にとってもガイラさん足立正生さん荒井晴彦さん福間健二さん(そして沖島勲さん)らは会いにいけるアイドル、ヒーローで、それが神話化でも矮小化でもなくこのように映画化されたことには刺された。また吉積めぐみさんを中心に、その眼を通してということがデカい。批判もあるだろうが、映画の現場に携わる女性に特に観られてほしい。
父親そっくりのフォームでスケボーに乗る村上虹郎が本作ではサーフボードに乗り、曲者な若者を演じたことの愉快。イギー・ポップの曲が佐野玲於を象徴する挿入曲としてリフレインされるがそれがしっくりきていて見事。ハワイロケに踊らされず村上春樹のブランドネームに引きずられず、監督松永大司は自分の表現、映画づくりをやった。過去作の「トイレのピエタ」で取り組んだことに続く喪の仕事のように本作を真摯に撮り、透明度の高い悲しみをタフでクールな吉田羊に託して描いた。
吉岡里帆の〈声〉は、タイトル通り当初は小さくて聞こえづらい。ところが、だんだんと〈声〉が〝大きくなる〟のではなく、〝厚みを帯びてゆく〟のがポイント。順撮りであるわけもなく、また整音だけに頼るわけでもない。〈声量〉をコントロールすることで、主人公の〈自信〉を表現してみせているのだ。一方で、全篇を通してフィックスよりも手持ちによる移動ショットの印象が強い。三木聡作品の特徴でもある美術・磯見俊裕の作り込みが、移動ショットによって確認しづらいのは痛恨。
この映画は〝人の気持ち〟を描こうと試みている。映画の入り口では、学園ドラマにありがちな「彼女をモノにする」という知能指数の低い物語を提示。やがて、男前ながらも「シラノ・ド・ベルジュラック」のような〝まごころ〟を描いた映画へと転調してゆくのが痛快。物語の緩急によって様々な対比を生んでいるが、唐田えりかの強弱を持つヒロイン像は、それに適っている。言葉にすると安く聞こえるが、昨今の〈壁ドン系映画〉に対する批評性をも帯びた「井口昇の新境地」と評せる。
ヒロインの〝背中〟が、観客を70年代の映画製作現場へと誘う。そこには既に、目には見えない時代の〈空気〉なるものが存在する。70年代の若者たちの熱量を提示しながら「自由な環境は自分たちで作り出すもの」と、我々の棲む現代社会を批評。例えば、同調圧力、あるいは、言葉尻を捕らえるのをよしとすることで、目には見えない〈空気〉なるものの窮屈さを禁じえない昨今の状況に対して、本作は「出鱈目な熱量の中でしか文化は生まれないのではないか」と思わせるに至るのだ。
原作は三人称で描かれているため、母親が息子を想う気持ちが明確には語られていない。一方の映画では、〝母親のモノローグ〟という一人称へと変化していることにより、母親の息子に対する想いがより強く描かれ、明確になっているという印象を受ける。母・吉田羊の演技を受け止める息子・佐野玲於のアプローチは物静かだが、むしろその姿が母と子の間に流れる〝愛〟をも強く印象付ける。原作にはない行間を役者の演技と映像で補強しながら、全体的に原作のイメージと乖離していない。