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いささか大袈裟になるかもしれないが、トリュフォー監督「突然炎のごとく(ジュールとジム)」に匹敵する恋愛映画の傑作だ。と言っても恋だの愛だのが表だって描かれるわけではない。同居生活を送る〝僕〟と静雄の日常の中にサラッと入り込んできた佐知子。僕と佐知子は同じ書店で働いていて、最初は佐知子が僕にコナをかけてきたのだが。3人が共有する遊びの時間の丁寧な描写が危なっかしいほど屈託がなく、演出を一切感じさせない動きや台詞も素晴らしい。そして函館の空気感。
主人公のしょったんは、天才ではなく執念の人。年齢制限という壁に阻まれても何としてもプロの棋士になりたいという執念。実話の映画化だけに主人公は、紆余曲折を経てその夢を実現するが、その紆余曲折がゆるいエピソードばかりで、場面はあってもドラマがない。思うに将棋が好きというよりもプロになるということへの執着が勝っているようで、周囲もいい人ばかり。豊田監督は主人公の執念を格別謳い上げているわけではないが、キャスティングが贅沢なだけに話の薄さがもの足りない。
ムチャ振りとしか言いようがない設定のホラーふうサスペンスだが、あり得ない話を実写化するスタッフ、キャストの意欲は買いたい。魔力を持つ1本の口紅。女はもともと口紅の色を変えただけで気分まで変化することがあるが、その口紅を塗ってキスをすると相手の顔をチェンジ、物理的には不可能でも心理的には無きにしも非ず。ただ美醜の交換をする2人の顔の違いがいまいち曖昧で、演技的な区別もメリハリ不足。舞台女優というその舞台がアングラふうなのは、話がアングラ的だから?
緒方作品を観るのは「体温」「子宮に沈める」、そして今回と3作目だが、孤独や疎外感を切り口に、社会のダークサイドを抉っていくその作品歴は、安易な救いがないだけに、観ているこちらの体力、気力がかなり消耗する。〝情報の暴露〟を描いたこの作品は特にそれが著しい。しかも前2作同様、救いはともかくその先の展望が全くないので、不快なまでにリアルな再現ふうドラマという印象は否めない。場面の切り替えごとの黒い画面も、世界を閉じ込めているようで息苦しい。
F・ラング作品を上映している映画館で四宮秀俊氏に遭遇したので、おめーのロビー・ミューラーごっこで近藤龍人キャメラマンが築いてきたものが台無し、と言ってやったがそれはあまりにもよかったことへの照れ隠し。また新しい佐藤泰志映画。画も音もディープ、同時に澄んでいる。素晴しいスタッフだ。柄本佑の帽子はポルトガル土産だそうだが、なぜ行った? オリヴェイラが好きだからだろう。そんな映画バカにして実力ある映画人たちの心地よい集まりが現代日本映画を進めている。
又吉直樹原作の「花火」の映画化を観て、悪くなかったけれど夢破れることがこんなに甘やかでいいのかとも思った。本作は実話である敗者復活物語だが、まず訪れる敗退はまったく苦く、痛い。その直前の、自分は選ばれし者なのかどうか、という焦燥の日々も気が狂いそうなものとしてきちんと描かれていた。勝敗のある生というコースに入ったひとの物語という普遍性。弱さ、敗北、挫折をよく知るがゆえに本作は「3月のライオン」「聖の青春」より強い将棋映画となっているようだ。
主演女優ふたりはやりがいがあっただろう。基本的な設定に、演技者として明確な仕事が用意されている。これはこの欄で度々出会う、よく読まれ、その面白さが認められている漫画を原作とする映画のほぼすべてが持っている、根本的な構想やキャラクターの強さだ。容貌の美醜、演劇の肉体性など、そもそも実写化されることに向かうような要素もあった。おもしろい映画になっていた。ただやはりまだ原作漫画の幅や徹底に負けてはいないか。原作漫画に実写映画化が勝つことはないのか。
映画らしくあることに背を向ける異様な険しさ。その姿勢と画面は出来事の苛烈さを表すため独自の映像のスタイルを発明しようとした作品「私は絶対許さない」を連想させもするが、それよりはむしろ、おわかりいただけただろうか、のナレーションが流れる「本当にあった!呪いのビデオ」に近づいているかもしれぬ。そう、わかってくる。段々面白くなるのだ。意図なく撮られ、誰にも見られない映像をベースとすること。そこにも本作の主題である、安易な主観の洪水への警戒がある。
「突然炎のごとく」や「はなればなれに」がそうであったように、〝ドリカム編成〟の男女は、やがてひとりが溢れる運命にある。ビリヤードやピンポンという遊戯の人数構成は、その運命を暗示させている。映画はフレーム内の事象を観客に提示するが、本作ではフレームの外側を〈音〉で感じさせることによって空間を演出。そして、画面上では決して交わることのない〝視線〟のやりとりを実践した書店内のシーン。唐突に切り替わる〝接吻〟を裏付けるカット割は、もはや神懸かっている。
この映画は誰かの人生を傍観しているようである。誰かが突然いなくなったり、いつの間にか会う機会がなくなったり、あるいは、自分の人生に関わらなくなったり。そんな些細な人の往来がリアルに描かれているからだ。人の成長は周囲の人によって構成されていることを、登場人物の去来によって表現しようとしているように見える。そのことと共鳴するように、これまで豊田組を去来してきた役者たちが続々と出演。その邂逅と思慕もまた、この物語と監督の人生とを共鳴させるのである。
〈外見〉と〈内面〉は其々に影響を与えるのか? という命題をもとに、「偽物が本物を超える瞬間」を本作は描いている。トリッキーなアイディアに惑わされがちだが、〝ふたりでひとり〟を演じ分けた土屋太鳳と芳根京子は、「フェイス/オフ」のジョン・トラヴォルタとニコラス・ケイジに匹敵するアプローチを感じさせる。『かもめ』や『サロメ』の物語自体を作品に取り込みながら、登場人物の人生にもなぞらせてゆくという構成もまた、劇中の「虚構が現実を超える瞬間」を導くのだ。
タイトルに〈目〉のアップが重なるが、〈目〉=見ることは本作のテーマのひとつ。基本的にカメラは、離れた位置から現場を〝覗き見〟しているようなアングルで構成。印象的なのは映画館でスクリーンを注視する客席を映し出したカットだ。ホラーに恐怖し、ドラマに涙する劇中の観客にとって、映画と現実は当然のことながら別世界。そのモンタージュが、世の〝無関心〟を抽出させている。表情の変化を排除して外見と内面の乖離を演じてみせた松林うららの演技アプローチも素晴らしい。