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冒頭から軽快なテンポで映画は進んでゆく。青年と少年の出会いも慌ただしく過ぎるが、これから二人がどうなるのか知ってしまっている観客は、そこに微かなはじまりのサインを読み取ろうとせずにいられない。しかし事が動き始めてからはスピードは少しずつ減速し、仕草と表情でじっくりと語る方向に舵を切る。高級文化芸術趣味に彩られた物語はいささか鼻につくけれど、ああいう世界がほんとにあるんでしょう。ティモシー・シャラメのうつろな瞳は良い。恋というよりは蒼い性欲の話。
現代アートの爛熟と、それゆえの矛盾と逆説、そして現代人の倫理をめぐる矛盾と逆説を、徹底的にアイロニカルに描いた秀作。主人公の現代美術館のチーフ・キュレーターが公私両面において落ち込んでゆく窮状は、どう見ても自業自得なのだが、彼個人の問題には明らかに留まらない。一般性に乏しい題材ではあるし、小ネタのくすぐりの多い演出は地味と言えば地味なのだが、知的でシニカルな悲喜劇として極めて良く出来ている。カンヌのパルムドールだが、ニッポンではどう受け取られるか?
非常に重いテーマを丁寧に丁寧に撮っている。スタイリッシュな、それゆえにむしろテレビドラマ風に見えてしまわなくもない映像設計(過去のモノクロ処理も)は同世代の台湾の映画作家たちとはかなり異なっているが、同じ歴史と同じ問題を共有していることはむろんのこと。日本語が聞こえるたびにはっとさせられる。そして、とても複雑な気持ちになる。ワン・レン監督はずっと昔にオムニバス「坊やの人形」一篇を観ただけだが、「超級三部作」の他の二作もぜひ観てみたいと思った。
すごく面白い。内容はまあよくある系なのだが、映像も演技も非常にセンスがある。全体のテイストはどこか「アウトレイジ」風。主演の二人以外のキャラも立ちまくっている。しかしやはりこの映画の肝はソル・ギョングだ。「殺人者の記憶法」と本作を観るだけでも、どれだけ凄い役者かはわかる。一見しょぼくれたオジサンなのに内側から滲み出る狂気が圧倒的。ハードボイルドな女刑事のチョン・ヘジンも素晴らしい。北野風なのは緩急の付け方、緊張と脱力の自在な制御。これは買いです。
BL的なドラマではあるけれど、その関係自体をクローズアップするというよりは、思春期の性と恋愛、その美しさと儚さを堪能するに限る。中性的な美少年とインテリ美青年の恋なので女性ならどちらに自分を投影しても楽しめるし、自分と自分の好きな相手を同一化するような倒錯感や、イタリアの夏ならではのブルジョアなムードが少女漫画的な世界観を後押しする。少年役のティモシー自らが水着姿でピアノを奏でるカットはかなりフェティッシュであると同時にサービスカットでもある。
「思いやり」を試される究極の参加体験型ブラックコメディ。特に日本人=優しいから対岸の火事だと思い込んでいるなら今すぐその頭の中のお花畑を焼き払うべき。先日も混雑した駅構内で進行方向と逆方面の階段に流されてしまったところすれ違いざまに「死ね」と言われた。見ず知らずの人に。国や民族によって何が逆鱗に触れるかカスタマイズしたバージョンを作っても面白そう。パーティーの最中にテリー・ノタリーが見せるモンキーマンのパフォーマンスはそれだけで一見の価値あり。
昨年日本で公開された「台湾新電影時代」(14)の中で佐藤忠男氏が挙げ、ワンシーンが引用されていた本作。その全篇をやっと見られた。それは言葉を奪われた者たちの記録だった。戒厳令と白色テロ下の台湾で逮捕され、自身と家族の人生を失った主人公。彼が名前を口にしたことで死に追いやってしまった友人。かつての仲間たちは閉ざしてきた重い口を開く。言葉よりもはるかに大きな存在感を放つ沈黙。その末に主人公が発する日本語の「すみません」の響きに目の覚める思いがする。
優等生イメージの強いイム・シワンが、虐げられる一方だった「弁護人」(13)での屈辱を晴らすかのように、ダークなキャラクターとアクションで大暴れ。悪に対する力みのなさという点ではソル・ギョングよりも悪役に向いているかもしれない。近年の韓国映像界で流行りの時制を行き来する構成にはやはり振り回されるが、スタイリッシュなアクションシーンは華麗でありながらちゃんと「痛」かっただけに、監督がSNSでの失言からカンヌ出席断念を余儀なくされた事態は残念だった。
昨今LGBTを扱った映画は多いが、本作はイタリア、避暑地ロンバルディアでの少年の通過儀式的な同性に対する憧憬が描かれる。聡明で芸術家肌の少年の恋は美しくロマンティックで青春の悲しみが心に沁みる。父親が大学教授の富裕な一家の日常は、いかにもジェイムズ・アイヴォリー(脚本)らしい貴族的品格とユーモアに溢れている。最も忘れがたいシーンは、終盤近くの父と子の対話だ。人生の岐路に立つ息子に、全てを知っている父親の、理解と慈愛と叡智に満ちた知的な助言は感動的だ。
現代美術そのものをサタイアーの対象にしたユニークな映画だ。美術館のキュレイターである主人公が企画した「スクエア」は、床を四角い枠で区切っただけの作品だが、そこに入る人はみな平等公平に扱われるという観客参加型のコンセプチャル・アート――いわゆるパフォーマンス・アートだ。携帯電話が盗まれるのを契機に次々彼の身辺に起こる奇々怪々な事件はさながら上出来のパフォーマンスを見るごとく、あらゆるシーンが意表をつく面白さで、監督の独自な世界観が楽しめる。
戒厳令と白色テロの50年代に獄中転向により仲間を死に至らしめたという罪の意識と自責の念を抱いて生き続けた男の最晩年が、回想による説明を極力排し、現在の主人公の表情と演技で描かれる。友の墓前に灯をともし呟く詩のような長い独白がハイライトだ。悔恨の念が胸を打つ。反日的科白はないが、頻出する日本語や軍歌が心に痛い。かつて高橋和巳を「苦悩派の文学」と言った人がいたが、まさに「苦悩派の映画」だ。1995年の作品だが、4Kデジタルの映像は美しい。
ヤクザ映画やギャング映画はホモソーシャルの世界だと言われているが、この映画はその究極の典型だ。暗黒街で知り合った二匹の野良犬、犯罪組織の№2と潜入刑事。孤独な過去が二人を結ぶ絆だ。組織を取るか友情を取るかはまったく予断を許さない。ソル・ギョング、イム・シワンが適役を好演。上司の女刑事、組織の会長などの点景人物や獄中の描写も面白く、ノワール・ファンの心をつかむ設定、映像にあふれた快作。欧米の映画界からリメイクの申し込みが舞い込みそうな企画だ。