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この手の韓国映画のスリルとは、ベースに実話があること、つまり実際に隣国で起きた出来事に対する恐怖心だろう。個人(本作では継父)の利益のため、法律を悪用しまくり、薄幸美人系妻子を痛めつける本作に関しては、少し前の日本でも起こり得た話のように感じられ、そういう意味での新鮮味には欠ける。主人公の、TV業界から消されかけたディレクター(イ・サンユン)と相棒女子とのデジャブ感は「SCOOP!」の福山雅治&二階堂ふみコンビ、か。あんな色っぽいことにはならないけど。
本作のベースとなる、ゴーギャンのタヒチ滞在記『ノアノア』について、日本語訳者の岩切正一郎氏は、ヨーロッパの古い習慣に縛られた画家が、いかにして色彩を解放するに至ったのか? という「ゴーギャンの精神の冒険譚」と表現した。57年のゴーギャンの人生の、わずか2年間を切り取った本作では、ゴッホの悲劇や二度目のタヒチ旅行で味わった孤独は一切語られない。芸術を追求した「高貴な野蛮人」の変化を、ヴァンサン・カッセルがキリストのようにストイックに悶え、体現する。
ザイドルの芸術作品だと思えば得心もいくが、トロフィー・ハンティングがテーマのドキュメンタリーとして観ると面食らう。ドキュメンタリーというジャンルで、ザイドルの好む対立構造は有効ではない。サハラ砂漠に降り注ぐ光の中で繰り広げられる狩猟現場と薄暗い解体場、饒舌な白人と沈黙する黒人。神的視座からザイドルが誘導するエンディングは強烈な印象を残すが、あざとく不快だ(あくまで個人的感想です)。物言わぬ犬にラストを語らせるなら、黒人の声に耳を傾けるべきだった。
ヴェネチア映画祭脚本賞受賞の快挙も納得。雲南省から浙江省へ出稼ぎに出る16歳の少女から、少女と同じ縫製工場で働く25歳の女、彼女の夫婦喧嘩の仲裁に入る45歳の男……巧みに被写体をずらしながら、湖州に集う中国出稼ぎ労働者たちの人生いろいろを捉えるワン・ビンの流麗な眼差しよ! 遠巻きに眺めると深刻な夫婦喧嘩も、客に窘められる夫の弱さを具に見れば、犬も食わぬ感じもしてきて、被写体とカメラの絶妙な距離感は魔法の如く。「世界中どこでも塩は塩の味よ」は名言なり。
一匹狼のジャーナリスト、美しい被害者女性、拉致監禁、冤罪、虐待、臓器売買と猟奇スリラーのお馴染み要素がてんこ盛りとなり、D・フィンチャー以後に興隆する未解決犯罪映画の模範的作品に仕上がった。ただし作り手側の関心は、犯人を裁くことよりも、精神科病棟での非人道的な監禁と流血をホラー映画のようにエキセントリックに撮ることに傾斜しているように思える。「実話」というエクスキューズで何やら社会改革を装っているが、猟奇マニアを志向したかったのではないか。
汚れなき楽園で詩想に耽るというのは、芸術家にとって夢であると同時に罠ともなりうるだろう。そして主人公ゴーギャンの第2の夢/罠は現地妻との関係性だ。彼は妻を愛で、のちに閉じ込める。エグゾチスムによって彼は反動の徒に堕する愚を演じ、引き換えに不滅の芸術をモノにした。しかし本作自体も主人公と同一線上にあるのだ。エグゾチスムの陥穽にはまることによって、拒みようのない映像美を獲得する。これを「植民地主義的美学」と呼んでいい。そこに映画作家の探究がある。
生きるためではなく、楽しむために狩猟に興じる白人ハンターたちを、本作は直接的に裁くことはしない。だが画面を見ながらヘドが出る思いに囚われぬ観客は、一人もいないだろう。シマウマ、キリン、ゾウなど馴染み深い野生動物たちが撃たれ、皮を剥がされ解体される残酷映像ゆえではない。関係者の冷血さとドヤ顔にヘドが出るのであり、さらには、無邪気に動物園で楽しむ私たちとて無罪ではないという潜在的残酷に気づかされる、作者の遠回しの批判精神に虚を衝かれるのだ。
フィクションとドキュメンタリーを区別することは無意味だとよく言われる。王兵こそそれを最も実感させる現役の映画作家だ。フレーミングは何かを選択しているはずだが、選択をまったく感じさせない。何かが起こっているという絶対的確信が、編集を力強く突き動かす。浙江省の衣類加工都市・湖州市の小さな一角を撮っているだけなのに、あたかも現代世界の艱難が全部写っているかのようだ。小を以て大を看る――思い起こせばこれは、中国芸術の伝統的な十八番ではなかったか。
母親の病死があって警察署長殺人事件があって精神病院の火災があって、それがいついかに起こったか。その客観の事実がはっきりと示されないままで物語は展開。精神病院に拉致されたヒロインの主観描写を中心に進行していくから、なんだかこちらはモヤモヤした気分に。おまけに探偵役のTVプロデューサーも時として感情に走ったりするので、観ていて腰が落ち着かない。トリック物って、いかなる奇怪な謎があってもその底に論理性が不可欠なはず。これじゃ作り手のご都合主義映画で。
パリの暮らしに行きづまって、タヒチへと渡ったゴーギャン。が、お気楽なパラダイス的描写はない。ひたすら貧困や病気に苦しめられる、その生活スケッチで映画は綴られていく。彼の絵のモデルとなった現地人の娘。男の言うままと見せかけて実は――の展開にも、ゴーギャンその人を美化して描かぬどころか、彼の人間の弱さを観察しているようなよそよそしさがあって。西欧人が自分の持ち込んだ文明に裏切られるという、文字通り文明批評的側面もあるけど、実はそれをやりたかったの?
さすが「パラダイス三部作」の監督だ。ハンティングを描いて単純な善悪論に堕していない。白人ハンターたちが狩猟への想いを語る。論理的である。が、その口調にどこか後ろめたさも匂う。本番の狩猟の緊張と快感。続いて獲物の解体作業。ここを余すところなく見せたグロテスクさ。これが狩猟の正体というように。その肉を持ち帰り、かぶりつく原住民たちの血まみれの口元。そこに西欧人たちに従属しつつも生き続ける彼らの強靭さが窺えて。それこそがこの映画の真のネラいなのでは。
出稼ぎ労働ドキュメタリー。その人間模様をこちらはただ眺める。時として見つめる。金のために働くとはどういうことかと、考えたりもする。親しみのわく人もいれば、通り過ぎていった人もいる。強烈な感銘はないけど、じとっとまとわりついてくるものがある。いつも通りのワン・ビン映画だ。淡々の人間観察。声高じゃないけど、中国体制への批判が透けて見える。ヴェネチアの脚本賞という。構成とか編集の賞じゃないんだ。今、脚本ってどう受け止められているんだろう。考え込む。