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ミステリー小説や映画における難解な事件というのは、一見、無関係な情報をいかに沢山盛り込むかということで、その点、この映画は抜かりがない。冒頭は80年代、仙台のスナックで店のママに身の上を語る女のシーン。夫と離婚、ここで働かせてほしい。やがて孤独死をすることになる女の正体は……。今回のテーマは、あえて言えば、因果な親を持った子どもの悲劇ということだが、いささか無理矢理感はあるものの、ふつうに楽しめる。阿部寛が日本橋周辺を歩く場面がいい感じ。
泣き虫、毛虫、挟んで捨てろ!! それにしても大胆というか、無茶というか、デタラメというか、谷崎世界の換骨奪胎ぶりはちょっとアキレるほどで、その一方、これでいいのだ、という思いも。元医者でいまは私小説的なショボい漫画を描いている渋川清彦と、かつて売れない漫画家だった戸次重幸との、恋と友情の譲り合いゲーム。2人のマドンナ(!?)は一見、受け身の内田慈。3人の力関係の、変調、転調、乱調がSM的で、渋川とマドンナの泣きっぷりもおかしい。ラストにもニヤッ。
製作は豊田市・映画「星めぐりの町」実行委員会。確かに水と緑がいっぱいのディープな豊田市でのロケは、企業城下町として知られる豊田市とは全く別の表情があり、主人公の実直な豆腐屋・小林稔侍をはじめ、出てくる人物も、律義で元気な善男善女ばかり。ご当地映画だからというより、地域に暮らす人々のふつうの姿。ただ残念なのは、豆腐屋に引き取られてくる少年の扱いが、豆腐屋をアピールするためのような印象が強すぎること。誰も少年の学校について触れないのも不思議。
原作を知らなかったので、観る前は勝手に、長距離深夜バスを利用する人たちの群像劇ではと思っていた。ワケありカップルに家出に帰省、妊婦も乗っていたりして、社会の縮図的なエピソードが次々――。が、全く大違い。深夜バスに乗り込む客のことなど一切無視、バツイチ運転手を軸としたウチウチの話が、嚙んで含めるように時間をかけて描かれ、元妻に息子と娘、さらに恋人や義父らがあーだ、こーだ。全部引き受けようとする主人公の誠実さがメインだが、どうにもこの〝バス〟には乗れん。
不勉強で原作未読。本筋ではないが、この物語世界内の倫理的感覚として、やったひとは悪くない、と許せる殺人を原発作業員である人物がおこなう意味はなんであろうか(穢れ、とか、必要悪、をオーバーラップさせうるものなのか)と思わせられるところがあり、読みうること、ストーリーというものはおもしろいものだと感じた。推理者自身の存在が事件に関係するというのはシリーズものでそう何度もできることでないのでその気合いにも打たれた。フラットな映像化だが文句はない。
演技とメイクで壇蜜的な物腰をつくり、そこに主体性のなさを加味して譲渡物件女となってみせた内田慈の役者力に感心。地味渋川清彦も良い。谷崎潤一郎の細君譲渡事件についてはウィキに載っていることしか知らぬがベースとなった出来事の如き三角関係は巷にあふれているのに(私も経験ある)、それが谷崎と佐藤春夫の作品に反映されて残ったところがこの事件の面白さかと思う。そういう意味で大事な要素の、当事者がそれを作品化したり他人に語る場面への意識が的確だったと思う。
ムショ帰りか久方ぶりの帰国をした東映映画ファンがいるならば小林稔侍氏の活躍に驚倒する、と、かつて杉作J太郎氏は書いたが、それはなんとなくわかる。当方は三角マークの根が切れてないものを稔侍氏が醸すときにグッとくるところがあり、そういう意味で「家族はつらいよ2」の氏はよかったが、本作はやや収まりすぎ立派すぎ老年男性は職人ぽいのに憧れすぎ。しかし震災で妹を亡くした少年にかける言葉を途絶えさせ、少し離れて(主演なのに点景化し)泣く稔侍氏はよかった。
原田泰造がここまでの存在感を持つのを見ると、現代日本で生活感のある普通の中年男を体現できる役者がいかに払底しているかがわかる。変態か異様な美中年ばかり。案外現実でも、自意識少なく、安定した職能者で、ただ穏やかに傍らに居るだけの男はモテる。大型バスのハンドルをさばく原田にジュンとくるのは小西真奈美だけではない。だが後半はモテすぎた男のズルさか、主人公も映画も弛緩し、ボロが出た感。とはいえ生活の重みと、漂う中年エロス臭は、妙に雄弁に何かを語る。
人は社会から突然姿を消すことがある。そのことを我々は〝蒸発〟と呼んでいるが、決して存在そのものが消えてしまった訳ではない、というのが本作の大前提。人は他人から認識されて初めて〝存在する〟。この人間の存在証明を命題にしながら、複雑な人間関係を提示してゆくのである。そして観客を混乱させないため、捜査会議で使用される相関図が何度も映し出されている。ともすれば説明的なのだが、観客も脳裏に相関図を描きながら一緒に謎解きをするという効果を生んでいるのだ。
不倫沙汰に対して世間の厳しい視線が向けられるようになった昨今、〈細君譲渡事件〉を下敷きにしたこの物語には、どうしても不謹慎さを禁じえない。ところが、これまでの監督作品で〝くず人間〟と世間から罵倒されるような人々の内面を丁寧かつ真摯に描いてきた内田英治監督は、本作でも泥沼の三角関係や愛憎関係に普遍性を持たせようと試みている。それゆえ、原作の設定が現代に変更され、職業などに変化があっても「時代は変化しても人間の本質は変わらない」と感じさせるのだ。
老人と少年の交流を描いた作品だが、同時に〝働き方〟や〝仕事のあり方〟について考えさせられる作品でもある。豆腐職人の主人公は、ただひたすら毎日同じ事を繰り返す。それゆえ本作では、豆腐ひとつにかける時間がゆっくり丁寧に描かれている。華やかさとは縁遠く、目の前にある仕事の精度を落とさぬようストイックに生きるその姿は、かつて小林稔侍が「冬の華」で演じた寡黙な料理人の姿とも重なる。そしてそれは、小林稔侍という役者の人生そのものと奇しくも重なるのである。
バス運転手として東京と新潟の間を往来する主人公は、同時に、ふたりの女性の間も往来している。〝渡り鳥〟である白鳥は、その姿を象徴するように見える。劇中「白鳥は家族で渡る」という台詞がある。東京ではひとりの男として存在し、新潟では父親として存在する主人公の二重生活は〝渡り鳥〟が皮肉っている。この二つの土地の違いを表現しているのは、各々の実景だけではない。鳥や風の音はもちろん、駅のホームや交差点などの交通量の違いが生む音によっても表現されているのだ。