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タイトルに引きずられた、ってワケではないのだろうが、映画自体がアタマからシッポまで〝嘘八百〟ではどーしょうもない。そもそもあれこれ能書きらしきものは盛り込んでいるが脚本が薄っぺら。キャラクターはハナからいかがわしく、主役2人の演技も脚本に合わせてか、ヘラヘラと上っ調子。骨董品ブーム!? に便乗した逆転コメディという狙いはともかく、作者たち、ホンキでこんな話が面白いと思ってんの!? 大阪の喜劇人の扱いもおざなりで、笑うよりツラくて、ツラくて……。
主役は〝家〟。そういう意味では大林宣彦監督「HOUSE」のシリアス版とも言えるかも。町の通りにある入り口は平凡、けれども間取りにクセのある家。その家で全く別の2組の女たちの日常が進行していくのだが、時間のズレなど一切無関係に描かれる2組の女たちの日常は、〝家〟が同じだけにどこか浮遊感が漂い、清原監督と脚本・加藤法子の発想に感心する。そこで寝て食事をしても、あくまでも仮の宿のような〝家〟。さりげない喪失感も悩ましい異色のホラー・サスペンス。
そういえば坂下監督の劇場映画デビュー作「東京ウィンドオーケストラ」も、音楽がらみのドジ&ふて腐れコメディとしていい線いっていたが、今回はアイドル崩れのアラフォー女子連の、飛んで火に入る夏の虫、が、玉砕転じて……。不発に終わったアイドル・グループの名がアメリカのミステリーに登場する〝ピンカートン〟というのも人を喰っているが、元リーダー格の内田慈をメーンにしたグループ再結成の曲折は、キャラ、台詞、エピソード共に苦笑いの雨アラレ。坂下監督、絶好調!!
30年前のオモチャ箱をひっくり返し、キャラやアイデアにより遊びを加えた21世紀版の〝新たなる伝説〟に乾杯したい。そう、こういう映画こそ〝映画の特権〟、無茶苦茶さの中に、ロックと映画への愛が溢れているのも嬉しい。しかもチープさや紋切型のキャラに愛嬌があり、いや、この作品ではそれが〝リアル〟として違和感がない。クセのある俳優陣のらしい登場もくすぐったく、中でも夏木マリはドンピシャ。万人向きの作品ではないかもしれないが、手造り一点ものの映画として万才!!
うらぶれた連中が腹黒さをキレイに装った奴らに仕掛けるコンゲームという愉快痛快なシナリオに芝居の下手がひとりもいない役者陣、それが作り手と現場の熱できっちり窯変した娯楽作。かけられたお金以上の充実が立ち上がってくる小気味いいプロの仕事。大阪は堺が舞台で骨董の器がネタという完全和モノ世界ながらチームもの作戦ものの洋画的快感がある。佐々木と中井の並び歩く姿や、深夜に筆をとる木下ほうかがかっこよい。初笑いにもってこい。騙されたと思ってぜひ観てほしい。
人工知能がつくった映画のようだ。良いとは思えない。観る快楽を感じさせる前進移動がいくつもあったが、そのことだけで一本の映画としてよかったと言いづらい。お話、出来事、ひとが、映画が始まってから終わるまでの時間と、それぞれの画面のなかにかろうじて在るだけで、満たしていないし足りていない。私は堀禎一「夏の娘たち~ひめごと~」も小林勇貴「全員死刑」も理由はそれぞれながらあまり買えないが、批評の援護を見るにつけ自分の観る目のなさを若干疑う。本作も同様。
昨今隆盛のアイドル文化に便乗した軽いものかと見くびっていたが、漫画『カラテ地獄変』などでいうところの〝人の性(さが)悪なり〟という認識から見る世界があって面白かった。ファンは痴愚のごとく、祀られた少女を崇拝し、当の偶像少女らは彼らを侮蔑し互いに嫉妬し引きずりおろしあい世に毒づく。そのなかで毛筋ひとつほどあった友情を壊した。内田慈の元メンバー探訪という枠組みが良い。もっと淪落の地獄のなかでもうひとりの自分を探す旅でもよかったが。女優が皆良い。
旦那芸といえば階級から吹き降ろされる夜郎自大に鼻持ちならぬ思いをさせられることだが、稀に芸がそんなに悪くない旦那もいるだろうし、文士劇のようなものが持ちうる良さというのもある。うわっ、と声が出そうな胡乱な場面と、美術や小ネタなどの細部の良さが入り乱れて押し寄せた。ただ音楽の良さだけは調子を下げず続いた。なんとなく曲がかかってひとが踊るとか、気のきかない音が鳴ることはなかった。隙だらけでひどいが結局好きだ。兄弟が女になるところや内田裕也とか。
かつて某国の土産物店で「他の店は三級品を扱っているが、うちは一級と二級のコピーしか扱っていない」と店員に豪語され驚愕したことがある。つまり紛い物の世界にもランクがあると言う訳だ。この映画では「本物より凄い偽物は本物に成り得るのか?」という問答を描いている。登場する古物は〈偽物〉であることが前提になっているため、職人の作り出す〈偽物〉が役者の演技や演出によって本物らしく〝見える〟のだ。それは職人らしく〝見える〟佐々木蔵之介の佇まいの賜物でもある。
いつの間にか、わたしたちの頭の中には映像で描かれる空間に対する認識方法が備わっていることに気付く。そして、特定の空間における時間の流れは、基本的にタイムライン上で一直線だと理解している。映画の歴史は、その法則のようなものをあえて崩したり捩じ曲げたりしながら、これまでにない物語の流れを構築してきた。本作では二つの時間がひとつの家屋の中で流れている。清原惟監督は「ひとつのバガテル」でも特異な空間設計に秀でていたが、今回は物語をも特異にさせている。
〝ピンカートン〟に会いにいくのは、彼女たちのファンだった人々だけではない。これは〝ピンカートン〟=〝昔の自分〟に会いにいくという物語でもあるからだ。つまり〝ピンカートン〟は昔の仲間を探す〝探偵〟=〝今の自分〟のことでもある。かつての栄光や思い出に縋りながら生きているのは、何も元アイドルだった者に限らない。その「誰にでもある」普遍性を、少し変わった題材の中で描くことに坂下監督は長けている。特筆すべきは加湿器をメタファーにした再会場面の秀逸な会話。
前作から32年、「ブレードランナー」に続いてまさかの続篇である。時代は経たものの、前作の持っていた〝トキワ荘〟的な精神が本作の基盤となっている。手塚眞と同時代を生きてきた映画人やミュージシャン、文化人たち。彼らは前作同様、大挙して画面の隅々に登場し、同時代を生きてきたという証を映像に刻み込んでいる。これを楽屋落ちや内輪話と捉えるか否かで評価は変わるかも知れないが、斯様な荒唐無稽で出鱈目なロックミュージカルは「もはや夢」と思わせる寂寞がある。