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そういえばテレビアニメの『3月のライオン』と実写映画2部作の「3月のライオン」は、原作に対する切り口の違いか、まったく別ものとしてどちらも楽しめたが、劇場版アニメが先行したこの実写映画の場合、どうも全体にナリとフリのバランスが悪く、小っ恥ずかしいったらない。高校生役の若手俳優たちが、小学生レベルの好きとか嫌いで右往左往して。「この世のもっとも大きな罪はことばで人を傷付けること」という台詞も実写だとカマトトめく。終盤のミュージカルも小学生レベル。
島の若い女先生が、海軍特攻隊の若い隊員に恋をした。すでに国家に命を捧げている隊長に……。心も体も火照ったそんな女を、満島ひかりは媚びない演技で純朴に演じ、彼女に関しては不満はない。けれども隊長の描き方や、小学校の子どもたちの演出が実に稚拙で、特に子どもたちにはハラハラ。海や森、そして彼女が歌う島唄などはかなり神話的なのに。恋するあまり、殉死も覚悟した女の一人相撲的ラストもいまいちアッサリ。いっそ国家とのガチな三角関係にしてほしかった。
〝誰も殺さない米兵〟といえば、同じ沖縄が舞台の「ハクソー・リッジ」が記憶に新しいが、こちらは小島の洞窟に身を潜めた脱走兵、しかも洞窟では脱走した日本兵と一緒。この二人に少女が絡み、更に日本兵の兄も加わって、戦争、愛国心、命などが寓話的、演劇的に描かれるが、いまちい描写も印象も散漫なのが残念。現代のパートも取って付けたようで、監督の狙いである〝生きてこそ〟というテーマを曖昧にする。いや、命は確かに繋ごうとしているが。〝星砂〟というタイトルも感傷的。
タイトルを耳にしたとき、黒沢清「クリーピー」ふうのホラー・サスペンスかと思ったのだが、ドッコイ、ミュージカル仕立て(!?)の反戦ホラーで、これにはビックリ。決してうまい映画ではないが、女学校の焼け残った校舎と、かつてそこで歌やダンスの練習に励んだ生徒たちの痛ましいエピソードはストレートに胸を打つ。スタッフ、キャストのほとんどはモデルとなった梅光学院の生徒たちだそうだが、なかなか大したものだと思う。ただ歌に字幕をつけてほしかった。いくつか聞き取れず。
大ヒットアニメの実写化ゆえの苦労もあったろうがこれは全然いいんじゃないでしょうか。ところで、発話が困難なひとでも歌は唄える、という同じネタを昔、時代劇映画で観たが、あれはなんだっけ。大川橋蔵主演の次郎長ものスピンオフ的映画で、どもりゆえにいっつもバカにされてる堺駿二が、お、俺ぁ、歌を唄うときにゃあどもらねえんでい! と言って自分の名乗りを堂々と朗々と唄いながら殴りこむも華を見せたのはそこまでで、斬り殺される。こういうのはなぜかとても感動的だ。
映画監督以前の越川さんにはこの世代のひとに特有な? 文化的で知的なものを感じていた。その源泉のひとつに女性を大事にしてるということがある気がする。実際の交遊とかは知らないしそれは関係ないが、越川プロデュース映画が描く女性像の細やかさみたいなもののことを言いたい。自分にはそれがないのでいつも発見を感じ、感嘆していた。本作はそれが爆裂している。ひとりの女性の執着、つまり愛で、戦争という狂気のなか、ひとりの男が救われた、とも見えることが良かった。
ついつい島尾敏雄と「戦メリ」のことを連想しつつ観ていた。男性原理的な戦争の末端に属する男と土着の娘との南の島における出会いや、後の歴史を知る者にとっては局地的一時的なことでしかないと思える日本兵に捕らえられた白人捕虜などの要素ゆえに。しかしそれはどこかタカをくくって観ていたようなもので、中盤、吉岡里帆が気づくボールペンのネタ、あれはほんとうに面白いと思いました。一種のミステリー映画。緑魔子のマジカルな登場で、生きてこそ、という主題が出た。
悪く言えば被写体も撮影も素人的に揺らいでいるのだが、良く言えば本欄で並んでいる映画「ここさけ」実写版が玄人のテクニックをもって出そう出そうとしている初々しさや生々しさを天然に持っている。そこに価値はある。コンセプチュアルで、バレエ寄り。これはジーン・ケリー派の世界。ミュージカルのダンスがフィジカルな恋愛のメタファーであるなら、本作は少女たちによる(それ自体完結した)見事な準備とそれが本番を迎えられなかったことの悲劇を描いていたとも言える。
大前提としてアニメ版との比較が不可避の本作。言葉を発さないヒロインを演じる芳根京子は、当然の如く台詞に頼らない演技を強いられるが、〝本音を言わない〟ことと〝喋らない〟こととの違いを表現してみせている。そしてカメラは、表情だけでなく内面も捉えようとしていることが窺える。例えば、心が寄り添うとカメラはゆっくりとズームインし、心が離れるとズームアウトする。また渡り廊下では、本心を打ち明けるタイミングで柱が画面から排除さるなど映像表現も重視されている。
映画冒頭、女性教師と島の子供たちはトンネル状に覆われた林の中を歩いている。彼らはその一本道を遠回りするよう強いられるのだが、その状況はふたりの男女の姿を暗喩させているようにも見える。それは、ふたりの一途な関係が許されないのではなく、時代が彼らを許さないということなのである。本作には島の〈自然音〉が全篇に流れている。終戦を迎えても変わらない〈自然音〉は、人間の存在がちっぽけであることも感じさせる。島の自然の如き不動である津嘉山正種の存在感が壮麗。
有孔虫の亡骸である星の砂は、美しく、そして希少である。それは本作における人間関係を例えているようにも見える。戦争において「戦わないことを選択する」という理想に伴った〈死〉は、決して美しくないからだ。並列する異なる世代の物語は、戦争体験を後世に伝えることの難しさを提示。そして「父は長崎に」なる台詞で観客が推し量ることを必要とするように、後世に伝えるあり方も本作は提示している。織田梨沙の話す英語は句切る位置が正確で、言葉の美しさが耳に残るのも一興。
本作は中高生のキャスト・スタッフ主体で製作された作品である。それを考慮すると、プロでない少女たちに斯様なレベルにまで演技をつけ、ミュージカル場面を成立させたことは感嘆に値する。同時に、カット毎に色味が変わる、照明が統一されていない、ピントや整音が甘いなど、技術面の拙さが目立つ。絶望と至福が入り交じる終幕にはカタルシスがあるだけに、(製作意図とは乖離するかも知れないが)技術スタッフにプロを起用していれば完成度が異なっていたであろう点が惜しまれる。