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〝馬子にも衣裳〟という台詞のあと、そのことばの意味が字幕で画面に張り付けられる。そっか、キラキラ少女漫画のファンやその映画化に足を運ぶのはほとんど中高生女子、作り手である大人たちとしては、ここはカワユクお節介をして、〝馬子〟を〝孫〟と聞き違えたり、ぼんやり聞き流したりしないよう、字幕化したったワケね。教育的見地からしても一石二鳥、役に立つ!? それにしても浮世離れもいいとこの〝イケメン〟大バーゲン・コメディにアレコレ言ってもね。勝手にどうぞ。
山椒は小粒でもぴりりと辛い、という格言をもじって言えば、「クロス」は小品でもかなり辛い――。映画化の過程で、城戸賞の脚本がどう変わったか気になるところだが、チラシの〈愛、嫉妬、快楽、罪、欲望の十字架から逃れられない〉というコピーよりも、因果は巡るふうな印象が強く、サスペンス的な演出がいくつも。主要人物は3人で、背景には血腥い事件が2つ。優柔不断でストーカー的な夫のキャラには困ったが、女2人の罪と罰の引き受け方の違いが面白い。冒頭の字幕は無用では。
一見、唐突。かなり、強引。無茶ブリふうのキャラクター。引いてしまうエピソード。が一行が足止めを余儀なくされる辺りから、それぞれの関係の不協和音が具体的な行動になって現れ、マジメなような不マジメなような脚本・演出の永山正史、なかなか達者である。回想シーンや抒情的演出は一切ないのに、それぞれの行動から見えてくるやるせない思い。父を突き放している少年と、太っ腹の紅一点、湯舟すぴかのキャラも面白い。であの亀、いまでも元気でいるかしら。気になります。
俳優陣の〝見てくれ〟がいまいちザンネンなのが、逆に奇妙なリアリティを誘う。地方の小さな町で育った男女のセックス相手は、当然、身近な相手、その辺りの近親相姦的関係はかなりナマナマしい。土着的なイメージもチラッ。主人公たちが川に入って水遊びをするシーンを長々と撮っているのもいい感じ。ただどうしても気になったのは、主役・西山真来のゆかたの着かた。痩せすぎ体型ではあるが、あんなにだらしなくゆかたを着る女に自分の意志があるとは思えず。あ、寝間着かも。
昔読んだ坂口安吾のサーカス観覧記にブランコ乗りの青年のことを書いた箇所があった。その青年は人気者の驕りか、ニヤケタ感じがみっともなく卑猥だったそうだが、技に失敗してネットに転落し、それを取り戻そうと必死の形相でロープを登るときに打って変わって神々しかったという。それに似て、愛の困難に直面する瞬間以外は醜悪な彼らを耐えて観た。土屋太鳳の大顔面の堂々とした美に比して男優の動きと佇まいに(千葉雄大の浴衣の着こなしが悪くない以外は)見甲斐がない。
本作のチラシに脚本家掛札昌裕氏がコメントを寄せていて誉めている。つい最近まで私はバイト先の映画館で何本かの掛札脚本映画を繰り返し上映していたため、ついそれらと本作を比較した。特に女性の犯罪実録ということがウリであった「明治・大正・昭和 猟奇女犯罪史」の阿部定パートを思い浮かべた。その想起は本作への物足りなさを強めた。一体何が違うのか。「猟奇女犯罪史」ではモノローグによって、映画は平然とキャラクターの内面を語った。あの恐るべき大胆さだろうか。
脇で出ている川瀬陽太がさらう。かなり場面を持っていく。映画「怒り」で森山未來がやっていたキャラに、この川瀬演じる新太郎の足指の股にたまった垢を煎じて飲ませてやりたい。そんな川瀬にずっと気圧され気味の木村知貴も映画終盤でカラダを張った見せ場爆裂。熱唱もいい。九十年代のインディーズやピンクの低予算映画は他にやれることもないからなのか、日常に風穴あけるための奇行が横溢してたが、実際そいつはこちらのこころを解放した。それと同じものがある。映像も良い。
西山真来がどの登場人物よりも背が高く、その存在感がそのまま主人公の資格となって物語を牽引した。西山さんは身長174センチ、ハリウッド映画にも出てるモデルのTAOが177センチで「ワンダーウーマン」のガル・ガドットが178センチだからほとんどそのレベルの姿態だ。島田に結えば2メートル越えだ。中盤の川遊び場面で彼女とあと二人女性が水着姿で揃うところはまさに夏の娘たちだった。男は完全に添え物。それでいい。ビノシュ(佐伯美波)が儲け役に見えた。
映画冒頭、バスはくねった坂道を一休みしながら登ってゆく。それは映画全体の構成そのものを表現している。本作は〈血縁〉に依らない兄妹の恋心を描いているが、家族関係の多様性を掲げる現代社会において、ふたりの関係はある意味で〈血縁〉に依らない家族関係でもあると言える。その道程が紆余曲折を迎えることは映画冒頭で示されているが、ラストカットではふたりの行く末が困難であることを示唆してみせている。ふたりの目前に広がる大海、それは前途多難を匂わせるのである。
かつて反社会的行為に関与したふたりの女性の社会復帰を阻むものが、近親憎悪であると描いた本作。秀逸なのは低予算を逆手に取った(本来は撮影者である)釘宮慎治監督による撮影。クロースアップを多用しつつ、逆光やスモークによって単調になりがちな画面内情報量を増幅させている。また、斎藤工の演じるフリージャーナリストは小さな役だが、歪さを感じさせる役作りが光る。一方で、必要以上に繰り返されるフェードアウトにより、感情の持続力を途切れさせている点が惜しまれる。
自主映画の描く世界は〝半径5メートル以内〟と揶揄されがちだが、永山正史監督はロードムービーに仕立てることで外界へと飛び出す。旅で景色が変化するのに対し、主要人物たちは〝半径5メートル以内〟をはみ出そうとしない。それゆえ、外界の人間に「軋轢を生み衝突する」という役割を担わせていることも窺える。インディペンデント映画界に愛でられる木村知貴、抜群の存在感を放つ川瀬陽太、野性を感じさせる湯舟すぴかの役作りも出色。つまり本作は役者を観る映画でもあるのだ。
夏を想起させるのは、浴衣など衣裳によるものだけではない。屋外から聞こえてくる虫の音や、性に溺れる肉体から吹き出す汗、濡れる髪などによってもそう感じさせるのである。また主人公が「沢で体を洗う」と悶絶しながら囁くように、〈水〉という要素が劇中に点在している。水遊びや夕立、何かを洗う音など、視覚からも聴覚からも納涼を感じさせようと試みているのだ。一方で、被写界深度を活かせず映像が全篇に亘ってフラットな印象、整音状態が統一されていない点が惜しまれる。