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子どもたちの呪いを描いたホラー・ファンタジーに、理詰めの解釈など無用でしかないのだが、福祉関係の仕事をしている友人によれば、子どもはどんなに親から虐待されても、親を慕い、親にすがりつくそうな。その点、清水作品の子どもたちは、自分たちを虐待した大人たちにとりついて恐怖で追い詰め、この辺り、かなり小気味いい。けれども、過去の因縁話や、ご大層なナリフリで現れる滝沢秀明の部分は、逆に恐怖がサッと引いて笑ってしまう。しかも親の因果が子に報い、というのだから。
映画に限らず主人公なる存在は、たとえ極悪人でも、キャラクターのどこかに人を惹きつける何かがあるはずで、だからこそ主人公なのだが、ディーン・フジオカが演じる結婚詐欺師は、まんま口先きだけのインチキ・セールスマンふう、これほど魅力ゼロの主人公ってのも珍しい。ま、それを言えばハナシ自体が薄っぺらで安っぽく、主人公の口先きに乗せられる結婚願望の強い女たちもアキレるほど愚かで凡庸、どっちもどっちでツラいのなんの。「クヒオ大佐」「夢売るふたり」で口直しするか。
30分の作品だけにコクや深みは期待できないが、色の使い方や時間の省略など、キレのいいビジュアル・センスはなかなか大したもので、ハイヒールというモノにつきまとうフェティシズムも、さりげなく漂う。靴職人の菊地凜子をあえてアンドロイドに設定したのは、ハイヒールを注文にくる若い女性客との対応の中で芽生えてくるある種の欲望を描くためなのだろうが、演出にもう少しメリハリがあったら、もっと甘美で残酷なファンタジーになったかも。ともあれ、クールで美しい作品だ。
アメリカの作家ハーラン・エリスンのSF小説『世界の中心で愛を叫んだけもの』の、中身ではなくタイトルだけをチラッ。そういえば内田監督の前作のタイトルは「ふゆの獣」。どうも内田監督は、いわゆる公序良俗とか、常識的人間には関心がないようで、今回も自立できない他力本願人間を中心において、ナリフリかまわず愛を叫ばせる。それが作風、個性なのだろうが、だからか、最後までこの映画には近づけず、近づく気にもなれなかった。あゝ〝亡命〟なることばの無意味な軽さよ。
この監督は独特の境地の更なる奥地にまで行ったなと思う。タッキーがファンタジックなキャラで出ることは怖さを削いでいるがそこから別の次元が展開している。都市伝説として既に呪いが知られている設定や、その由来と解決法の調査などの定番が巧い。ヒロインが握ったドアノブの向こうでは人が首を吊り、不意に時空は歪んで呪いの始まるこども時代が再来する。ちゃんと怖いが、怖さが反射反応であることを超えて探究される。たしかに児童虐待も「呪怨」シリーズからの主題だった。
個的な行動による犯罪を描く映画が内包する物語のベクトルとはその犯罪がそれをおこなう人物の深層心理を表すということだろうが、それによる叙情をドーンと打ち出して面白く出来ている映画だった。結婚詐欺師に騙される女の人より詐欺師が可哀想な人間でしたということの是非はともかく、ちゃんと描けてる。探偵古舘寛治が「フォロー・ミー」みたいな活躍をする映画が見たいと夢想した。以前ナマで目撃した安藤玉恵さんにはすごく色気があったが本作にはその片鱗が出てた。
何を書いたらいいのか難しくて頭を抱えた。きれいな映像で飽きることもなく面白くなくもなく観たが、だから何、と思った。すいません。……自分は映画に何を求めてるのか。……発見? 観終えて、世界がそれまでと違って見えるようならば、バンバンザイのホームラン的鑑賞体験だ。本作は、そこまで行くには圧倒的に内容が少ない。短篇でも圧縮された濃い内容のものもあるがこれはそれほどでもない。作り手に引き続き期待。「こどもつかい」にも出てたが、玄理さんを、もっと観たい。
良い。うまくもないし予算がそんなにないであろうことも透けて見える。しかし、独自の見せ方でひとつの世界をつくっている。粗さのある画面はその粗さの狙いのまま美しい。第一の主演(主役的存在感が前半後半でリレーされる)須森隆文が、もう、濃い。濃すぎ。いや、他の映画が薄いのだ。須森が後半の主役櫻井亜衣を追って他人の家に乱入するところには「明治侠客伝 三代目襲名」の、人物三人が砂浜でもつれあうところには「恋人たちは濡れた」のドライヴ感を感じた。好きな映画だ。
これまで、いくらでも主演の機会があったであろう滝沢秀明。そして、いくらでもVFXを使えたであろう清水崇監督。滝沢は本人確認が困難なほど異様な出で立ちの〝こどもつかい〟を演じ、清水監督はカットとカットを組み合わせるというアナログな演出に拘りを見せる。そんな本作が凡庸な作品になる訳もなく、近年の邦画ホラー作品の中でも異彩を放っている。また虐待に耐える子供たちの過酷な現実に対して、映画の中だけでも復讐の場を提供しようとする優しさと厳しさを感じる。
鏡に映り込む姿は言うまでもなく〝もうひとりの自分〟という自身の分身である。また〝揃わないルービックキューブ〟など、本作は隠喩に溢れている。それは、主人公が本性を隠しているからにほかならない。嘘で塗り固められた経歴の上っ面と同じように、物語の表層の向こう側には隠喩がある。それゆえ港で始まるこの映画は、干上がった海面で幕を閉じる。主人公にとって隠すものがなくなったからだけでなく、海面下に隠れていたものが露になることは、記憶の隠喩にもなっているのだ。
靴、あるいは、ハイヒール、それらを履く脚は、意外と横長のシネマスコープサイズに合っている。構図の収まりがよいとは言えないにもかかわらず、適度な余白が生まれ、なんとなく美的感覚を呼び覚ます。同時に本作は、美しいものと美しくないものが同居している。その中でも、歪な〈音声〉は、視覚と聴覚の受動的要素の違いによって非人間的な感覚を引き出し、アンドロイドであることへの裏付けにもなっている。また〈音〉を重ねた旋律が「ブレードランナー」を想起させる点も一興。
前半の舞台は都会。街には人が溢れ、主人公たちは雑踏を彷徨う。他人に依存することでしか人と人が繋がれない孤独を描いた本作だが、雑踏の他者は主人公たちの存在を意識しない。人は沢山いるのに隔絶されたかのような孤独。実際の街中で撮影し、そこに人が溢れているからこそ彼らの孤独が際立っている。後半の舞台は浜辺。人も疎らな寂寞とした風景もまた彼らを孤独にさせる。結局、人がいてもいなくても同じなのだ。本作のカメラは、そんな現代の孤独を覗いているかのようである。