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映画のジャンル分けなど、さして意味はないが、原作がボーイズラブものとは全く気がつかなかった。自分の〝犬〟を見つけた男と、無抵抗で〝犬〟になった男との暴力経由の愛。設定や力関係は異なるが、例えば戦友同士の関係やヤクザ映画等でも男同士の友情を超えた愛は存在するし、献身的行為の中にあるエゴや自虐性も否定できない。そういう意味では面白く観たが、どうも内田監督、2人のイタイ関係を掴みきれていないような。特に〝犬〟側の心理。映像はこれまでになく凝っているが。
あまり馴染みのない俳優さんたちの誠実な演技は悪くない。どんなにつらいことがあっても、家族を失っても、生きていれば〝光〟があるんですね、という劇中の台詞も記憶に残る。けれどもフトドキを承知で書けば、この「光と血」、まるで市井の悲劇の総ざらい。10人ほどの人物たちが、いじめ、交通事故死、レイプ、通り魔などの被害者、加害者として交錯し、自虐的になる人や復讐心を燃やす人も。そんな彼らが如何に立ち直っていくか、というのがテーマのようだが、全体に気負いすぎ。
ミステリーでいうところの〝倒叙〟もの形式を使い、犯人が名乗り出たところから、22年前の未解決事件が再び動き出す、という進行は成功している。自信たっぷり、妙に晴れ晴れと告白会見をする藤原竜也に、何か裏があることは誰が観ても分かることだし。連続殺人の再現映像や被害者遺族、マスコミ、そして警察側の動きも、自称〝犯人〟の目論見通り。が、肝心の大詰めが大失速!! ウダウダした説明台詞に演出も間延び、興覚めもいいところ。奥の手のトリックも後出しジャンケン。
別に呪縛されているわけではないが、私にとって「昼顔」といえば、カトリーヌ・ドヌーヴがルイス・ブニュエル監督の前で〝女の不可知〟さを演じきったあの秀作しかない。当然、ドラマ版は一切知らず、この映画版にしても、たかが不倫、されど純愛、とその辺は理解できたが、そもそも不倫疲れをしたヒロインが、誰も知り合いのいない海辺の町に越してくるという設定からして、ひと頃、流行したハーレクインロマンで、ヨリが戻ってのあの結末もロマンス小説並み。斎藤工の扱いが哀れ。
私がかつて悪所場で遭遇した男色者らは罪と暴力の気配を滲ませていた。サブカルチャーの装いやジュネの修辞もなく呼び合う摩羅とは、辟易させる男のあくどさの二乗。そこに目を背けたチャラいBLやそうした素振りが女子ウケすることを知ってポーズする男性アイドルの如きはファンタジックなチンカスに過ぎぬ。だが本作にはちゃんとヘヴィさと汚辱があった。原作に淵上、毎熊克哉、カトウシンスケらの顔が乗って、ヤクザVシネのプラトニックさを犯す禁断の新味を為したと言える。
登場人物らのささやかな日常、そこにおける苦しさや頑張りが描かれていくなか、不穏さが濃くなっていく。こいつら全員殺されるのか、また同時に、こいつが他の登場人物を殺すんじゃないか、と感じさせる。その予感に似て、やはり本作の群像は様々な事件で被害者や加害者となるが、このどちらにもなり得た感じは持続する。そこが良い。監督藤井道人氏の、いまの世の、とにかく人の心をザラッとさせるいやな感じに身を竦ませている感覚が過去作から一貫していることが好ましい。
藤原竜也氏が悪だか正義だか読めない配役の役者であるのは、シャマランがオカルティ(もしくはSF)な映画とそうでない映画を織り交ぜて繰り出してくるゆえに「ヴィレッジ」「ヴィジット」あたりを、えー、オチは幽霊か宇宙人じゃねーの? と思いながら観ることに似てる。その、どっちの可能性もあるなー、そしてまたまったく別のことも、というのを頭のなかに飼ったまま進行を見ているととにかく間がもつあの感じをひとりで醸す藤原氏。原作韓国映画の極端さには及ばぬが面白い。
面白い。うまい。しかし宣伝の方々からネタバレ緘口令をいただき、それを意識しながら書くのが面倒で、別のことを書く。この「昼顔」で、自分が夫を裏切っていたから自分もまた裏切られるのではと思う、というようなヒロインの台詞があってそれはよかったのだが、それを聞いて思い浮かべたのは、最近試写で観た映画の、惚れた女を悪い男から救い出した主人公が気づけばそいつと同じことを彼女に強いていたという愛欲因果が躍動する場面。内田伸輝監督「ぼくらの亡命」に星四つ。
例えば、誕生日が同じ人に出会うと何故かシンパシーを覚えるように、同じ名前の人に出会った場合を本作は考察してみせている。内田英治監督作品には〝どうしようもない人間〟ばかり登場するが、彼らは時に反社会的とも思える独自の価値観を好しとしつつ、現実と対峙しながら力強く生き抜いてゆくという特徴がある。いっけんすると特異な原作だが、そういう意味で内田監督作品らしい題材なのだとも解せる。小路紘史監督作「ケンとカズ」(15)のその後を想起させる脇役の姿も一興。
幸せになろうとしているのに、突然不幸が訪れる。本作の登場人物たちが傷つき、その姿が痛々しいのは、人生を前向きに生きようとしているからである。一方で、悪意ある人たちもいる。彼らの多くは、何ら鉄槌も下されることなく世に蔓延っている。この不条理に対する怒りを如何に〈負〉から〈正〉へと導けるのかを、クロスオーバーする群像劇として緻密に脚本化させている点が秀逸。描かれていることは悲惨だけれども、映像は美しく、逆光を多用することで暗部との対比を生んでいる。
韓国映画「殺人の告白」は〈復讐〉する理由を持つ人間を多角的に描いている点で異色の復讐劇だったが、本作では警察・被害者・犯人・マスコミなど事件に関わる人物たちの背景がより多角的に描かれ、ミステリ要素も加わっている点でオリジナルを超えている。捜査会議やイベント会場などのモブ場面や、時代考証に拘った美術や小道具の数々は勿論、異なる映像素材によって劇中の現実と劇中の現実で撮影された出来事への視覚的印象に変化を持たせるなど、細部にわたる演出が秀でている。
情事の代償として都会を離れた主人公が誰もいない部屋へと帰宅する。暑さしのぎに彼女が扇風機をつけると、机上のチラシが風に舞う。観客は机上に残された封書を注視するが、主人公はそれに気付かず、拾い集めたチラシで隠してしまう。その封書が重要なのかと思えば…というように、スクリーンサイズを活かした視点誘導という映画的演出が展開。表情を映し出したカットを積み重ねるモンタージュ、終盤のカットバック等々、本作をTVドラマの続きを描いた単なる劇場版と侮るなかれ。