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小森監督の何よりの手柄は、すでに国際人の種苗店の店主、佐藤氏に出会ったことだろう。据えっ放しのカメラの前で佐藤氏は、あれこれの仕事をこなしながら、震災のことや津波の被災体験を語る。岩手・陸前高田市のガランとした道路沿いの店。インタビュアーも兼ねている監督は、質問することがないのか、できないのか、とにかく佐藤氏のリアクションに全て丸投げ、そんな監督に佐藤氏は根気よく付き合う。個人を追うことで全体を俯瞰するのは記録映画の一つの手法だが、甘えてる気も。
カラフルな毛糸で編まれた〝煩悩〟の山に思わず笑ってしまったが、美術か小道具の人か、これを編んだスタッフたちを労いたい。痛いエピソードではなく、こういう形でトランスジェンダーのリンコの思いを描くとは、荻上監督、余裕がある。一方で、そんなリンコに母親に置き去りにされた少女を寄り添わせるアザトさが気になったが、2人をつなぐ桐谷健太に気負いがなく、疑似家族ドラマの佳作として気持ちがいい。主人公たちの生活の基盤である仕事を丁寧に描いているのも評価したい。
映画化される学園コミックのほとんどが、授業の休み時間と学校への往き帰り、放課後だけで成り立っている。そうか、授業中は全員、死んでる状態なのね。しかも生きてる時間は男女のことしか関心がない。あ、いじめもあるか。ま、中学生女子向きに作られた作品に嫌味を言うのも何だが、作っているのはプロの大人、現場の苦労を思ったりも。それにしても〝貞子〟ふうに目を隠したイジケ女子の、イジケとは無縁のお節介と、キラ君のヒミツにはおいおい!! もう好き勝手やって。
富田監督たち〝空族〟の描く現実はいつも痛い。世間からはみ出した若者たちの怒りと暴走。みなつんのめるように生きている。今回は日本からはみ出し、タイの歓楽街で根無し草のように生きる日本人たちと、日本人相手の娼婦たちの現実を交錯させていくが、いくつもあるエピソードが生々しく、どこか粗削りな演出、映像もスリリング。後半は、里帰りをする娼婦と元自衛隊員の話になるが、タイ東北部の風景やここでのエピソードも苦々しい。とりとめのなさが〝空族〟らしい野心作だ。
観始めはイライラした。古臭いだろうがビデオ以前のドキュメンタリーを観てきた記憶や感覚がまだ根強くあって、それとは体質の違うとにかく素材だけは沢山撮られている近年のドキュ作品の機材的有利さの裏に貼りつく無策さを強く感じたせいで。しかし観るうちに、決め打ちでないゆえに捉え得た細部の発見的感覚と、被写体である佐藤貞一氏の魅力がそれを超えた。苦難を受けた男が水の湧く場を拓くがそれはまた消える。「ケーブル・ホーグのバラード」とほぼ同じ感銘を受けた。
『映画芸術』458号の荒戸源次郎追悼の談話を読んで生田斗真という俳優を見直した矢先のこの映画。ますます見直す。ジャニーズ俳優で言うと私は短軀ながらマッチョな役柄をやりきる岡田准一の和製トム・クルーズ性が嫌いではないが、それと完全に立ち位置・ベクトルを別にしたメタモルフォーゼ系の役柄チョイスをする生田も非常に興味深い。「土竜の唄」二作のヤクザ&警察世界において華奢な彼がこの映画ではごつ過ぎる悲哀を出す。面白い。あとは能町みね子氏の感想を待つ。
飯豊まりえがよかった。最近の私の若い女優への「よかった」は娘に対するような感覚だ。この映画で安田顕演じる父親は何かフランス系のことをやる学者らしくそれに引っ張られた家庭のセンスから飯豊のファッションもリセエンヌふうで、それが彼女の風貌と合っていてよかった。黒ギャルが自分の娘だとつらいわ。つまり安田にアイデンティファイ、だから余命いくばくもない男と娘の交際を禁じる件はよくわかる。家庭こそ諸悪の根源。だが映画とヒロインは、それを乗り越えてゆけ!
またワケのわからん映画を! と思ってやきもきするのはまだ自分は本作と富田克也と相澤虎之助をわかるほうで、もっと彼らの映画が日本でウケるべきだと考えるから。ヒロインのラックが冒頭つぶやく〝バンコク、シット!〟に「地獄の黙示録」冒頭の〝まだサイゴンか…クソッ〟を感じ取り、ラックの母が持つジッポーに「恐怖分子」を思うが、狙いは映画趣味ではない。戦後アジア世界だ。そしてタイの田舎を深夜に女と二ケツですっ飛ばす富田克也はいまだ名前のない階級の英雄だ。
日頃から独り言が多いのか、それともカメラが回っているから喋るのか? 佐藤さんはよく喋る。本作が特異なのは、ビデオカメラで家族の思い出を記録した映像のように、被写体がカメラを意識し、レンズ(監督)に向かって語りかけている点。その語りが説明となることでナレーションの類いを必要としなくなる。我々はカメラを通して被写体が喋りかけてくる姿を観察しているようだが、実は撮る側を観察している佐藤さんを見ている。この不思議な関係性が全篇を支配しているのである。
〈血縁に依らない人間関係〉を描く作品が〈血縁よりも濃い絆〉を提示するにつけ、どんどん利己的になってゆく現代社会において「自分のためだけでなく、誰かのために生きるという選択肢もあるのではないか?」と考えさせられる。本作は、これまでの荻上直子監督作品とは表層的に異なっているように見えるのだが、実は〝周囲に馴染めない主人公〟という共通点がある。そして〈食べる〉という行為も、荻上作品で描かれてきた共通点。〈食べる〉ことは、即ち〈生きる〉ことなのである。
舞台は横浜と思われる。それゆえ、ダイナーや教会など洋風な匂いが全篇に漂っている。しかし同時に、画面から和風なものをあえて極力排除することによって、全体のトーンを整えようとしていることも窺える。また、ともすればつまらない脇役になってしまう恋敵役ながら、抜群の破壊力を発揮する平祐奈。誰かのために何かをすることは、自分の時間を相手のために使うことでもある。その相手が残り僅かの時間を過ごしている。だからからこそ、本作ではそれが尊い行為に思えるのである。
タイにおける〈都会〉と〈地方〉を考察してみせる本作は示唆に富んでいる。その一例は、PTSDを負い、彷徨い続けるオザワに見出せる。元自衛隊員の彼は、どうやらPKO活動に参加していたらしい。銃を購入し、愛する娼婦を救おうとする姿は、自ずと「タクシードライバー」(76)のトラヴィスと重なる。しかし当のオザワは、殴り込みをかけることもなければ、銃をぶっ放すこともない。銃を所持しても発砲しない。それは、専守防衛を唱える〈日本〉そのものにも見えるのだ。