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〝オケ〟に〝老人〟とくれば、どうしても〝棺桶〟を連想してしまい、実際、劇中でもそんな台詞がある。変化球狙いのタイトルというより、内容に沿っただけのタイトルなのだが、でも正直、〝オケ〟がオーケストラの略だと知っても〝老人〟ということばに気後れがして、積極的に観たくなるようなタイトルではない。それでも内容がとびきり痛快なら口込みも期待できるだろうが、これがまた想定内の紆余曲折。趣味を楽しむ年金生活者層向きの映画だからって、安易なご都合主義はヤメてほしい。
人生の節目を5話形式で描いているが、味違いの小ぶりのダンゴの串刺しをチビチビ食べているみたいで、何ひとつ、腹にも心にも溜まらない。5話ともコメディーのつもりのようだが、1話20分ほどでオチまで描こうとするからか、キャラが形式的で、どのパートも薄っぺら。特にシラケたのは5話目の〝結婚〟で、エキストラの数はそれなりに賑々しいが、ハナシもテンポも間のびして、笑うに笑えない。男のハナシが目立つのは、男の方が節目にこだわるからか。脚本も監督も何をしたかったの!?
湿気を含んだ焼きの濃い映像。頑なな男が発する重苦しい沈黙。無防備に男の日常に侵入してくる謎の女。男は小さな工場で働いているが、仕事以外はほとんど喋らない。やがてこの男とこの女の因縁が明らかになるのだが、全てにわたって半野喜弘監督のベタなナルシズムが感じられ、ここまで自己愛、自己のスタイルを見せつけられると、監督自身のプライベートを覗き見したような気まずい気分になったり。何を描くか、ではなく、どう撮るかを先行させた、監督のワンマン映画である。
将棋の世界に疎いので、29歳で亡くなった村山聖のことは今回初めて知ったのだが、この映画が、将棋盤をフィールドにした一種のスポコン映画になっているのがユニーク。むろん将棋は肉体競技とは異なるが、勝ち負けということではスポーツ競技と同じ、勝負に懸ける意地とプライドも共通する。しかも彼は難病とも闘い、医者の忠告にも耳を貸さず勝負に挑む。まるで「どついたるねん」の将棋版。聖役のために全身に肉を付けた松山ケンイチがみごとで、聖の執念とダブル。
何にでも優劣があり、ほとんどすべての人間が何かしらの基準においては劣位にあり、忸怩たる思いを抱えている。ひと時の夢想や仮構であっても、そのことに対抗しようとする映画は好ましい。大きいものへのアンチや〝鶏口となるも牛後となるなかれ〟という発想がない今の若者(映画「何者」にも表れていた)であるヒロインの精神的転回を語ることは価値がある。題がボケ老人とかけてあるとか、老人らが死をブラフに使ってくるというエッジさはもっと押してもよかった。
試写案内の日時題名のみを薄目で確認し予備的情報をまったく入れず映画を観る術を完成させているのでこのオムニバスの主題が〝写真〟だと鑑賞の途中で気づく。これは私のオツムが平均以下なことを示すだろうが、一観客として幸福な観かたができた。警察やミステリの専門用語〝アリバイ〟、この不在証明という概念を人生の幸福について用い、小道具に写真を使う発想に感心。藤原竜也をギャグ化したが如き山崎樹範の芝居が笑える。役者が皆良い。非リアルのフィクション志向も偉い。
主人公の過去と女との因果判明に失速感があるが、謎は明かされねばならず、仕方ない。映像と美術にパワーがある。青木崇高が良い。やはり映画「怒り」なぞ殺菌された商品。本作監督半野氏が音楽を手掛けた映画の多くを自分は観ていた。氏の名を介するとそれら監督の異なる映画が、静謐さと、現在時制の場面でもまるで誰かに回想されるような儚さと悲しさとを共有していたと気づく。だがメロディを憶えていない。今回この映画によって初めて、映像と物語によるメロディを感じた。
難病に苦しみ早世したが彼の生と残した業績はその病に由来した。悔やまれる途絶でありながら、熱く濃く生ききったことも間違いない。実在にはこのような矛盾と絡まりがあり、これは掃いて捨てるほどある安直な難病お涙頂戴映画が語りえないもの。本作は悲劇的でありつつ、肯定的で力強い青春映画、伝記映画となっている。俳優が全員強くキャラを作りこんでいるがそれが厭味なく作品世界を厚くした。村山と羽生の友愛を強調した脚色、両者が一分切れ負けを半泣きで戦う演出も良い。
老人たちで構成されたオーケストラが、ひとりの若い女性に導かれて成長を遂げてゆく。それゆえ、主人公が教師である設定にも意味がある。〝ペンライト〟は、その伏線として物語の中に度々登場し、まさに〝一筋の光〟としてオーケストラを栄光へと導いてゆく。下手な演奏が徐々に上手くなる過程を〈音〉で判らせることは困難を伴う。そのため、楽団員が徐々に増えてゆくことによって生まれる〈音〉の厚みを利用することで、急速な成長を遂げることに説得力を持たせているのである。
報道写真や芸術写真の類いを除けば、〝写真〟は思い出を記録し、記憶に留めるためのものである。現在進行形の物語において〝写真〟は、過去を視覚化したものとなるが、同時に〝写真〟は、思い出そのものでもある。本作はオムニバス形式をとっているが、〝写真〟という共通のモチーフを用いることで、思い出や記憶・記録のあり方を笑いで梱包しながら多角的に考察してみせている。願わくば「見合い」と「結婚」のエピソードで挟み込んだ構成にした方がよかったのではないかとも思う。
映画前半、台詞に頼ることなく描写を積み上げることで、主人公の人となりを表現しようとしていることが窺える。彼の人生における〝ノイズ〟を表すかのように、本作の音響効果には〝雑音〟が多用されている。例えば、工場や薬缶、そして、雨の降る音。不穏さの前触れを雷鳴に暗喩させているように、それらは、すきま風のように作品内に流れてゆく違和感の由縁ともなっている。本作における〈音〉に対するこだわり、それは半野喜弘監督が音楽家であることと決して無縁ではない。
本作は、とかく松山ケンイチの肉体改造ぶりばかりが取り上げられがちだが、純粋さと卑屈さが混在した内面的な葛藤を感じさせる演技アプローチもまた評価されるべき点。その演技を受ける東出昌大との衝突を、森義隆監督は双方の〈顔〉を撮ることで実践させている。ふたりの〈顔〉と〈顔〉が導く気迫と熱気。そして、深い部分で繋がっている相互理解のようなもの。映画の中で将棋のルールを提示することを必要としないのは、〈顔〉と〈顔〉によるモンタージュの賜物なのである。