パスワードを忘れた方はこちら
※各情報を公開しているユーザーの方のみ検索可能です。
メールアドレスをご入力ください。 入力されたメールアドレス宛にパスワードの再設定のお知らせメールが送信されます。
パスワードを再設定いただくためのお知らせメールをお送りしております。
メールをご覧いただきましてパスワードの再設定を行ってください。 本設定は72時間以内にお願い致します。
戻る
公開年:
現在の文字数:0文字
氏名(任意)
ルナールの蛇についての評ではないが、「長すぎる!」。実際の尺は、いまの映画の標準に収まっているのだろうが、なんで、こんなに長いのか、と途中で溜息をついた。小学校の運動会で一等賞になり金メダルを貰ったことから、金メダル目指して一筋という男の話を、小ネタの連続で押してくるのだが、その一々が説明的で、少しも弾まない。これを25分ぐらいずつに切って、テレビのコント番組にでもすれば、そこそこ成り立つのだろうが、映画館で見せられてもなあ……疲れるだけだ。
ある芸術家の肖像、という印象。といって、それはたんに佐野和宏演じる、書けなくなった小説家の肖像という意味ではない。むろん物語的には、それが前面にあるのだが、それ以上に、詩人にして監督の福間健二自身の肖像という印象が画面から匂い立つ。たとえば、何度か現れる、地面に散り敷いた枯れ葉を写したショット。それを見ると、ああ監督はこのような画を見たくて撮ったのだな、と思う。いわば、画面に反転した自画像と見えるのだが、だから面白いとはならないのだ。
いや、タイトルだけ目にしたときは、また、しょうもない恋愛モノか、と半分逃げ腰になったのだが……主人公が沖縄に行ったあたりから、それなりに楽しく見られた。頼りなげなボクを演じるイェソンは、さすが韓国の人気グループのリード・ボーカルだけあって、『勝手にしやがれ』を熱唱するところなどいいし、彼を韓国語の教師にした学院の二人組と三人で、韓国の社長を案内する佐々木希扮するさくらに、遠隔から韓国語を伝えながら追っかける一連など、コミカルに弾んでいて悪くない。
やっぱり、この役は松田龍平以外にないと納得する。怠け者で屁理屈を捏ねる〝インテリぼんくら〟というキャラは、下手にやると嫌味になる危うさがあるのだが、そこでの力加減が抜群にうまいのだ。たんに世俗に疎くて飄々としているというのではない。俗っ気もありながら、抜けてもいるし、はにかみもある。その辺のあわいを淡々と演じるのは易しいことではない。山下監督も、そのあたりを生かすテンポをよく心得ているようだが、前半、おじさんのキャラを見せていくくだりが、ややダレる。
良い出来。長野県塩尻の地方色を活かす設定も楽しめる。でも長い。挿話を連ねていき、それが布石として後からじわじわ効いてくる、という作りなのは段々分かってくるわけだが、それがどうしたという感じで星を減らした次第。脚本に驚きがないからだ。と言っても細部が(例えばテレビ画面引用とか使用される楽曲)凝っているので飽きさせない。また一人よがりの主人公が一人で表現部を作って文化祭でパフォーマンスを披露する場面は実に良かった。こういう仕掛けがもっとあったらなあ。
編集者と作家、二人の男のずるずるの関係と、一人の女がその間で揺れるという物語はありがちか、と最初は思った。しかし中身は濃かった。三人が互いに依存し合って、それも悪いことばかりじゃないという感じ、これが深い。書けない作家がしかも言葉を口に出せなくなって久しい、という設定に現実がリンクする。ともあれ伊藤も佐野ももはや「いい歳」で、かつ周囲からそれなりに尊敬もされているというのが良い。というか、かくありたい。不思議なのは終わり方で、あれは幻想なのか。
最近の希さんは余計な脂が抜けてとても良い、と私は思っている。ただ世間の評価は逆なので困ってしまうよ。沖縄は台湾からの旅行者であふれていると聞いたが、これは韓国人が一方の主役。いずれにせよアジアとの接触地点としての沖縄というのは多分二十一世紀現在、興味深い話題の一つ。彼が実はいいところのぼんぼん、という設定だけは冒頭から分かるものの、話のネタは割れないから楽しく見られた。バーのマスターが彼女を助けるために妙な発明品を持ち出すあたりから面白くなる。
松田龍平の「おじさん」演技もその兄一家も良いのに、ハワイに行ったら物語が散漫というかありがちな線に落ち着いてしまい、星を減らした。続篇で「ぼく」の担任女教師戸田とおじさんの恋物語を展開してもらいたい。「ぼく」が恋のキューピッドになるわけね。じゃないと国内キャストがあまりにもったいない。原作が北杜夫というのが意外で、かつ面白い。私の世代だと遠藤周作と並び、北さんが憧れの作家なのにこういう小説を知らなかった。得した気分ではあるがそれ以上ではないかも。
原作の一人舞台はTVで見ただけだが内村の芸達者ぶりに圧倒された。なまじ映画を意識せず、後半だけでなく舞台の様に全篇内村が演じても良かったのではないか。現代日本史と重ねて描くだけに、まともに作れば壮大な大作になる。コント的な平板な映像もひとつの手法とは思うものの一本調子。後半のアクションなど躍動する箇所もあるが、舞台よりも遥かに自由を得たはずが、映画の枷で逆に不自由に見えるのは皮肉。奇抜な映像+舞台調の融合で見せた方が相応しかったように思える。
同世代の男たちを迎えて福間映画が変貌を遂げたと思わせつつ、これまで同様、女たちも実に魅力的だ。普遍的な三角関係の物語の中で心地よい風が吹き抜け、空や土を眺めて季節を感じる〈いいにおいのする映画〉でもある。声を失くした佐野がボードに文字を書き、それを観客が読む間が言葉と映画を結ぶ時間になる。一方、趣里は山戸結希の詩の朗読イベントでも見せた才を福間の詩でも発揮し、言葉と声を結ぶ。現在の多くの映画から抜け落ちてしまったものを見つけた気分になる作品だ。
魅力に欠ける題だが朝原雄三だけあって演出で見せ切る。パターン通りの再会や別れのシーンをどんどん省略するのは小気味いいが、米軍機や雇用問題など沖縄の現実をさりげなく提示することも忘れない。だが、韓国語も覚束ないヒロインに商談相手の接待と通訳を任せ、挙句に強姦されそうになるパワハラ&セクハラを古めかしい笑いに利用するのは無頓着。無線を使った通訳作戦を活かすため、かなり喋ることができたはずのヒロインが日常会話までロクに分からなくなるのはご都合主義。
「もらとりあむタマ子」は計算されたゆるさが魅力だったが、今回は最初から脚本や演出までゆるくなっているのではないか。毒気のない予定調和と女優陣の大仰な演技に2時間近く付き合うのは辛い。松田の茫洋とした雰囲気は好ましいが、彼が牛丼屋で紅生姜を取る時に瓶の蓋を下にしたままカウンターに直置きして丼をかきこむので飛沫が瓶に入るとか、哲学者として授業をする割に自室に積まれた本がいつまで経っても紐で縛られたままだったりと細部のゆるさがキャラ造形に繋がらない。