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黒木瞳が吉田羊の役を演じたというNHKのドラマ版は観ていないが、黒木初監督、どの場面も説明的に話を運んでいるだけで、まんまドラマをやっている。いや、キャラクター頼みで話を運んでいる映画はそこら中にあるから今更嘆いても仕方がないが、陰陽ふうの、もしくは漫才のボケとツッコミもどきの2人のキャラクターが何とも薄っぺらで、途中で飽きてくる。〝嫌な女〟転じて〝嫌けがさす映画〟。ケタタマシイだけの木村佳乃の上っ面な演技も彼女らしくなく、逆に痛々しい。
「凶悪」の演出スタイルだった白石監督特有の〝明るいドス黒さ〟は、さすが今回、抑えられているが、いまや役者として怖いものなしの綾野剛が、正義のボタンをかけ違えた刑事を出ずっ張り、一直線の力演、久々のピカレスク(悪漢)ムービーとしてハラハラ、ワクワク、観応えある。正義より成果優先の当時の道警の体質に忠実な主人公。彼と組むヤクザ中村獅童ほか、脇の人物たちが全員、しっかり役を生きているのもみごとで、白石監督の演出の勢いと目配りに深作欣二監督の手法をチラッ。
作家デビューはしたものの、あとが続かず、故郷に戻ったヒロイン役の武田梨奈がザンネンだ。「ハイキック・ガール!」「デッド寿司」或いは「進撃の巨人」など、アクション先行の役なら間が持つが、今回は自転車で走り回りはするけれどマジメな芝居が多い役、女優としていまいち表情にも演技にもメリハリがない彼女を観続けるのがつらいのだ。その分、ロケ地・宇和島の風景でホッとしたり、図書館の自転車宅配という業務に感心したり。宇和島の歴史と伝統にも触れているがヒロインがね。
定点観測ならぬ定点お喋り。街中を流れる川に沿った、ちょっとした広場の短い石段。座り込んだ2人の背後には人や車が往き来し、広場にも人が出たり入ったり。ポイントはあくまでも彼らの関西弁の他愛ないお喋りだが、その日変りのお喋りが、座り込んだ2人の周辺の人々の動きと自然体で反応し合っているのがみごとで、まるでゆるーい連続コントのよう。原作はコミックだそうだが、シンプルな設定の中に青春という季節の宙ぶらりんさをここまで表現した演出と主演2人にパチパチパチ!
監督が男性か女性かということが作品にはっきりとした影響を与えるだろうか。謎だ。キャスリン・ビグローの映画など知らなければ女性監督だとは思わないんじゃないか。しかし女性監督ということが感じられる映画もある。本作はそれだ。内気で真面目な主人公の女性が、幼少期より嫌な女として見ているわがままな従姉に振り回される。この設定とか相手の見方に女性らしさを感じる。そして嫌な女とは自分のほうではなかったかというコペルニクス的転回。奇を衒わぬのに新鮮。良い。
非常に優れたコメディー。観客がゲラゲラ笑いながら観て、最後に国家とかに対して黒々とした薄気味悪さを感じるっちゅうのが本作の目指すところだと思うが、その野心は見事に実現されるだろう。実話に基づくそうだが、フィクションに良い飛び立ち方をした。「やくざの墓場 くちなしの花」とか「県警対組織暴力」と同時代から始まりながら現在にまで接続し、しかも刑事のダーティさが実に官僚的で日本的な閉鎖回路に向かうところ、警察をほんとにギャグにしたことが新しく、面白い。
武田梨奈主演。空手少女として出てきたときから、山口百恵や西脇美智子の系統の古風な和製美女のタマゴだと注目してたが、本作での顔のアップで、ああ、美人になった、と。話に関係なくあの画だけ観ていられる。彼女の役どころは東京で作家デビューするも挫折し、今は故郷の宇和島で図書館の本を届ける自転車課職員。半ズボンでペダルを漕ぐあの脚が実はバットを蹴り折る、と想像することはもう禁じられている。だが躍動の気配はあり、悪くない(しかしもっとアクションをと願う)。
渋い。しかしおもしろい。逆説的に充分に映画だとも感じられる。本作は原作が漫画だが、昔もただ小咄をしている漫画があったと思った。『ビー・バップ・ハイスクール』の後半。その映画版は活劇的なところをやって傑作となっていたが。映画において人物がただ会話する、というのは九〇年代タランティーノ以降の発見(あるいは開き直り)だが、そのルーツはロメールあたりかもしれない(タランティーノはビデオ店員時代ロメール好き)。そういうものの日本版をやるときが来たか。
劇中に点在する〈ひまわり〉。花言葉では「崇拝」や「愛慕」を意味するが、西洋では「偽りの富」という意味もある。それは〈ひまわり〉の贋作が持つ意味を暗喩させているだけでなく、能面的演技に徹した吉田羊が人として成長してゆく姿、或いは、木村佳乃の絶唱する歌がエンドロールでは本人の歌う主題歌になる、など「偽りのものが本物になる」ということの象徴にもなっている。この物事が変化してゆくプロセスは、「嫌な女」というタイトルの印象が変わってゆく点にも表れている。
年代記のように描かれる本作。約四半世紀のダイジェストという印象を欠くのは、「公共の安全を守り市民を犯罪から保護する」という台詞が年代記の背骨になっているからである。その台詞は、語る人間も、その解釈も、時々によって変化しているが、言葉の持つ真意だけは変わらない。その真意を中心に置いた時、台詞が善悪のどちら側に振れているかで、勧善懲悪のあり方のみならず、時代の推移をも表現してみせている。そして芸人が役者に向いていることも改めて感じさせるのであった。
近年の武田梨奈は、映画の中で地方の若者を演じることが多い。彼女の魅力は、地方出身者でもないのにどこか地方の匂いがするところにあり、様々な地方のアクセントを操る音感も持っている。そして〝アクション女優〟という肩書きに違わない身体能力は、ロードバイクを難なく乗りこなし、坂道を颯爽と駆け上がる躍動的な場面に活かされている。監督は前作「瀬戸内海賊物語」に続いてEOSの動画機能で撮影。小型の撮影機材がもたらす機動力が、映像の隅々に活かされている点も一興。
僕が関西から上京して感じた違い。それは、本作で延々と描かれている会話にある。相手からどんなに〈退屈〉な会話を振られても、関西人の多くはそれを受け止めようとする。〈意味なさげ〉な会話は、相手を放っておかない〝やさしさ〟のようなものであり、関西の言葉が持つ独特の〝どぎつさ〟と〝やわらかさ〟が、その印象を高めている。それゆえこの映画は、〈退屈〉や〈意味なさげ〉なのが面白いのだ。下町人情とはまた異なる、〝ボケとツッコミ〟という名の人情がここにはある。