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タイトルの〝世界〟は、さしずめ大ヒットした「世界の中心で、愛をさけぶ」的な自己中の〝世界〟で、〝猫〟も人気の定番ペット。さすが、日常的に映画向きの本を読んでいるに違いない原作者、川村元気プロデューサーならではの気を引くタイトル。そして難病ものにいささか悩ましいひねりを加えたストーリー。ま、早い話、命を手札にしてあれこれ自分の大切なものを消していくというのだが、何やら子どもが自分勝手なゲームでもやってるよう。アルゼンチン旅行は観客へのサービス映像?
2014年の『GQ Men of the Year』の1人に選ばれた園子温は、色紙に〝量〟と書く。質より量の意味か。なるほど、量が質に転じることは可能だろうが、質は滅多に量にはつながらない。要は数打ちゃ当たるってことで、撮った者勝ちってこと。そして思ったのは、園監督の巧みな商才。時代や流行、世間を挑発して自らをブランド化するそのテクニックは、このドキュメンタリーからも伝わってきて、それには感心する。けれども私は、監督の姿勢としては作品の裏にいる人の方が好み。
園子温の、いささか毒のある昭和へのノスタルジー回帰。昭和の日本家屋ふうな作りの宇宙船での時間の停滞は、終盤の影絵の回廊に向かうための、時間だったのか。いまは消え去った人々の日常風景やモノや遊びなどが、白い障子ふうの向こうに影絵化されてどこまでも。ロボットという設定の神楽坂恵が立ち寄る荒涼とした惑星の光景と、僅かに存在する人間も、みな後ろ向きで、いまにも消えそう。ひんやり感と喪失感を含め、園子温の映像散文詩は、やはり昭和なのか……。
ヤクザたちに血まみれで路上にころがされても、薄く笑ってフラフラと立ち上がる柳楽優弥。誰かを殴りたい欲望と誰かに殴られたい欲望が背中合わせになっていて、そこには衝動以外の理由はない。この虚無や自己破壊とも異なる無機質なキャラクターが斬新で、かなり危険な作品だが、拒否できない魅力がある。それだけに菅田将暉と小松菜奈が加わってアソビ感覚の暴力に移行すると、よくある若者の暴走劇となり、それが残念。地方の路地裏や港町の光景がどこかよそよそしいのも印象的。
良くない。本作は人間をダメにするような類の映画。懊悩も救済も浅薄、魂が小洒落たマーケティングの範囲にしかない取り繕った人物たちの影が右往左往するのを見ただけ。製作費が少なからずあり映像も役者も悪くないのにこんな駄目セカイ系企画をやらなくてもいいじゃないか。余命幾許もない? 早よ死ね! そもそも生きてもない。同じアルゼンチン、イグアスの滝にロケしたカンパニー松尾のAV「世界弾丸ハメドラー TANGO・地球の裏側で愛を踊る」を観てから出直してこい。
園子温が、このドキュメンタリーを観る者のために、ほどよくそれらしいキャラを演じているのではないかとも思うが、そうだとしても日々創造する人間のドライヴ感があって観ていて楽しい。神楽坂恵がいい奥さんっぽく、彼らが似合いの夫婦らしく見え、ほのぼの系の軽い衝撃。本作に記録される、俺を見て! 的なエネルギーの散り方が、近年のブレイク以降の園作品に時折見受けられる雑さの原因のような気がするが、明らかにこの人はそれで自分を盛り上げてもいてその良否は問えない。
いいSFを観た。手抜きや悪ふざけが、さすが園子温だと言われる悪い冗談のような体制と流通の場合とは違って、本作は観る甲斐のあるものがきちんと人の手で作られた、良いときの園子温作品。SFならではの大きな思考が美しく表現されている。園子温の個性は二〇一一年三月十一日以降の日本で、人々の既成のものへの不信と、崩壊への親和が増大した時に、ようやく受け入れられたようにも思える。その状況に便乗するのでなく報いて、本作は福島を人類滅亡の予見に位置づけた。見事。
素晴らしい。観終えた後、観る前とは世の中が少し違って見えた。固有の価値観を示せることが映画の価値だろう。喧嘩なんてほとんどしたことないし、稀にしてもボコられて虫のように丸まるばかりだったが、あれには何かが、痛みとか怯えとか怒りとかと絡みあう、真実の何かがある。それを思い出した。「ファイト・クラブ」のタイラー・ダーデンや本作の柳楽優弥のように血みどろでもヘラヘラして、負けを認めない=負けない、が出来たならさらにもっと違う景色が見えたかも、とも。
人はある時、当たり前だと思っていた人生がそうでないことに気付く。実は最初から有限であるのに、限りあると悟ってはじめて狼狽えるのだ。原作にも映画の引用はあるが、映画版では原作に記述のない映画も引用され、「生命」や「死」というテーマがリンクしているという面白さがある。例えば映画館に掲げられた「ファイト・クラブ」(99)。本作の構造自体「川村元気的解釈のファイト・クラブ」のようであり、ひとり二役で見せる佐藤健のダブルな魅力の由縁となっているのも一興。
本作は同時期に公開される「ひそひそ星」のサブテキスト的な作品ではない。また、園子温の人生を知るためでもなければ、映画監督という職業が何であるかを考察するためのものでもない。描かれるのは、異端と王道の狭間で揺れる園子温という表現者が、世の中が寛容でなくなったことを憂い、繊細であるが故に苦悩する姿。同時に、その姿を偉大な映画監督を父に持つ息子が取材している、という指摘からも本作は逃れられない。つまり、ふたつの異なる苦悩が衝突する映画なのである。
〝囁く〟のは、そのことが重要だからである。注意を促すため、或いは、周囲に悟られないようにするため、どうしても伝えたいことを〝囁く〟のだ。もちろん重要だからこそ、声を大にすべきことも世の中にはあるのだが、この映画では徹底して〝囁く〟。〝囁く〟からこそ、我々は耳をすまし、その言葉ひとつひとつに耳を傾ける。そして「未来をディストピアにしてはならない」と我々に決意させる。それは、荒廃したその光景が、現実の〝福島〟を撮影したものであるからにほかならない。
昨今の世相に渦巻く、行き場のない憤怒。それはマグマの如き熱を帯びながら堆積し、突如として世に噴出された末、理由なき暴力と化す。柳楽優弥は、擬人化された〝憤怒の塊〟のように見える。それは、現実社会で突然起こる不条理な暴力、或いは、世界を震撼させるテロを暗喩させているようでもある。〝リアルに見える〟演出に長けた真利子哲也監督は、暴力描写に賛否が起こることなど承知の上。観客は痛みを感じるたび「過酷な現実から目を逸らすな!」と叱咤されているのである。