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「セックスの無いのも若年性更年期障害のひとつの要因だ」という医者のセリフが出てくるが、この青春喜劇の場合〈更年期〉とはヒッチコック式にいえばマクガフィン(口実)にすぎない。最初のアモイ(マカオ)の街並みやアパートの窓から足を出して騒ぐヒロインがいきいきと見ていて楽しい。「北京には青空も海も無いわ」という北京や上海も舞台になる。人物たちのまわりをカメラがぐるりとまわる撮影が随所に見られ、水をふんだんに用いたセット撮影なども効果をあげてい印象的だ。
コロラドの荒れ地を十歳の男の子ふたりがワイセツ語をしゃべるゲームにふけりながら歩いていくと鉄条網があり、さらに進むとパトカーが乗りすてられていて――から始まるこの映画は、最後まで登場人物が極端に少ないのだが、車の運転も銃を手にするのも初めてという少年ふたりを軸に、パトカーの声だけの無線連絡を一種のトリックとして、最後まで緊張を持続させていくのは見事。男女のほか二匹の犬(雄と雌)も顔を出すが、主演のケヴィン・ベーコンとふたりの少年たちが出色。
学生時代に見た「長距離走者の孤独」でもトム・コートネイは、青年なのに年寄りのような顔つきが忘れられないが、この映画の彼はほんとうの老年で、ちょっとふやけた印象。結婚四十五周年をむかえる夫婦に小さな溝が生じるが、それによる気持のゆらぎをシャーロット・ランプリングが演じることで、静かだがひりひりするような映画的緊張が途切れない。邦題の「さざなみ」は見事に内容を切りとっている。出だしの部分で私は、久生十蘭の短篇小説『白雪姫』をすぐに思いうかべた。
ロサンジェルスのハリウッドとビバリーヒルズを結ぶ二キロほどのサンセット通りをめぐる追憶の断片集。筆者は一九八〇年当時ビバリーヒルズに住む画家の長岡秀星宅に泊めてもらったことがあるが、LAが苦手なのは車を運転しないからだ。オートバイをとばすキアヌ・リーヴスなど映画スターやロックミュージシャンたち多数が過去を語るが、まるで治外法権みたいだったむかしの通りを思いだすナイトクラブの無名のドアマンの話など興味は尽きない。
「猟奇的な彼女」の監督が、中国でラヴコメを撮る。破天荒なヒロインと、彼女にどんなに振り回されても支え続ける男。という設定は期待通りだが、四十路の女優に映画で26歳の役を普通にやらせていいのだろうか。ジョウ・シュンのヴィジュアルは相変わらず若いし、かわいいが、しっかり血肉となったキャリアの経験値に初々しさはない。だいたいもう〝若年性〟更年期じゃないでしょ、と笑えない気持ちになる。でも、本作を救っているのは、彼女のその確かな経験値でもあるのは皮肉か。
野原を歩くふたりの少年。素朴な風景をとらえる、ゆったりとした長回しが、どこか懐かしい映画体験の感覚を呼び起こす。監督は、「スパイダーマン」の新シリーズに抜擢された若手ジョン・ワッツ。視点も雰囲気も70年代ぽさが漂い、ひと昔前の監督の卵の、よくできた習作といった感じ。少年を演じる子役たちが、これまた懐かしい風情を湛え、しかも難しい内面を見事に表現しており注目。悪徳警官役ケヴィン・ベーコンの、年を重ねてますます生々しいへんてこな男臭さに気概を感じる。
シャーロット・ランプリングに、何より敬意を表したい。また、皺を深く刻んだ彼女の円熟した女としての美しさを、胸がキリキリするような厳しい物語の中に、これほど品よくも人間的に沁み込ませてみせた中年世代の監督もさすがだ。穏やかだけど成熟を信じない知的な夫婦の末路。このヒロインが結婚生活45年をどう過ごしてきたのか見えないのは不満だが(彼女は夫に寄り添ってきただけではないはず)、ランプリングの佇まいや感情の揺れだけで全篇が映画の醍醐味。最後までゾクッ!
ハリウッドとビバリーヒルズを結ぶ〝サンセット・ストリップ〟。ミュージシャン、映画人、コメディアンなど、己の魅力と才能で貪欲に成功をめざす人々が牛耳る文化発信地の歴史を紐解く。ひとつの有機体のような楽園への愛を嬉々として語るセレブたちのインタヴュー映像を見ると、彼らの体内に共通して流れる常識には収まりきらない〝泥〟こそが、人間臭さの本質に思えてくる。この泥を糧にする地が、21世紀もダイナミックに生き延びられるように。そんな願いも込められているだろう。
見れば結婚できる映画だというから、一所懸命に見た。前髪ぱっつんのまるで別人みたいなジョウ・シュン(声は藤原紀香)を百分間ながめて過ごす作品。目にやさしいけれど、ドSのチョン・ジヒョンやサイボーグの綾瀬はるかのようなインパクトに欠けて、展開のベタっぷりがいっそう前景化している。IKEAか何かのカタログのような生活感のなさは、東アジアのどこを舞台にしてももう変わらないことがこの三部作でわかった。つっこみすぎてもいけないけど、カメラぐるぐるまわりすぎ。
サンダンスっぽい映画だなと思って見ていたらやっぱりそうだった。脚本の発想はおもしろい。よけいな説明を排し、人物のバックボーンに関心を寄せないいさぎよさも好ましい。ただ、短篇として撮るべき習作をむりくり伸ばした感がいなめず、中盤が停滞している。少年の表情の着実な変化にこのフィルムの実質があり、ふたりの子役がケヴィン・ベーコンの老獪さに負けずがんばっている。それにしてもアメリカの国土は広い。真の主役は悪の放逸をゆるす、かの国の広大さかもしれない。
これは記録と記憶についての映画であり、フィルムやレコードが老夫婦のうすれゆく記憶とあいまいな不安にそっとさざなみを立てる。その瞬間の内なる表情を見ようとしている。主演ふたりのさすがの貫禄で全篇を見せきるが、人間の複雑な内面の襞を描くようで、じつはそれをかなり単純化している。このていどの人間理解は平凡だと思う。ふたりの老いかたもずいぶん理想化されていて、理屈で撮られた映画のように見える。シャーロット・ランプリングはときに彫像のように美しかった。
スター、ギャング、ショウビジネス。おまけにセックス、ドラッグ、ロックンロール。西海岸の「斜陽」と名指された通りの百年史をひもとく(副題にあるような音楽映画では必ずしもない)。出てくる人もエピソードのスケールもぜんぶすごいのだけど、高級ホテルのワンフロアをバグジーが借り切り、その階下にジョン・ウェインが牛を連れていたという話に白目をむいた。ハリウッドの外には、映画のつづきのような世界がそのままひろがっていたのである。アメリカ文化史を語る重要な証言集。