パスワードを忘れた方はこちら
※各情報を公開しているユーザーの方のみ検索可能です。
メールアドレスをご入力ください。 入力されたメールアドレス宛にパスワードの再設定のお知らせメールが送信されます。
パスワードを再設定いただくためのお知らせメールをお送りしております。
メールをご覧いただきましてパスワードの再設定を行ってください。 本設定は72時間以内にお願い致します。
戻る
公開年:
現在の文字数:0文字
氏名(任意)
なんか無理してるなぁ。女子校のクラスメイト間のイジメや嫌がらせを背景に、ミステリー仕立てにしているのだが、ミステリーにしては穴が多すぎる。まあ、拳銃で撃たれて流された血が、すぐ後には、まるで無かったかのようにキレイになっているのは、ご愛敬だとしても、小柄なあの子が、自分より背の高い彼女を、どうやって、あんなふうに片付けられたのか、そっちのほうがミステリアス! それに、一番、性格の悪そうな美冬から、純な愛について聞かされても、にわかに頷けない。
まず、冒頭で読まれる稲の詩に惹かれる。作者は、山形県上山市牧野で農業を営む木村迪夫さん。それは、田の代掻きをし、苗を植え、その生育に心身を砕いてきた農民なればこそ見、かつ詠み得た詩であろう。だが、稲を見つめる迪夫さんの視線は、身近な対象から、遙か遠くにまで及んでいる。三十二歳で戦死した父の時代から、彼自身が生きてきた戦後の現在まで。本作は、そのような農民詩人の歩みを捉えているのだが、ドキュメンタリーとしては、いささか踏み込みが弱い。
松田龍平の魅力満杯、という以上に彼の物語を牽引する力に脱帽する。何か意見を求められると、考える振りをしながら、まともなことは何も言わないくせに、無言の力がある。ただ、それで引っ張られる映画も、終わりの方は、グズグズと失速する。それは、お話に較べて映画が長すぎるからだ。途中、柄本明が、点滴の器財を引きずりながら、病院の屋上から、離れた学校の屋上に集まった吹奏楽部の生徒たちに指揮をするという、空間配置がとても素敵なシーンがあって、楽しいのだが。
一人の男が三人の女と出会う物語。四十年間、精神病院に入っていた男が、3・11東日本大震災の避難生活のなかで完治していたことがわかって自由になるという設定はともかく、演じる佐野和宏がいい。声帯を失った彼が、自転車に乗って飄々と街道を走る姿がいい。目指すは東京。そこには初体験をした女が避難している。彼は、四十年という時間を一挙に超えて、十代での体験へと旅をする。その道中で出会う二人の女から、最初にして最後の出会いまでの71分が、一瞬の夢に似る。
もともと舞台劇だったそうでたしかにそんな感じ。発端であり現在時制である場(同級生が集う廃校の教室とそこでの芝居)にこそ妙な存在感がある(あくまでも、この映画の他の回想場面に比べると、という意味)のは作品としてはそこがベースであるためか。ミステリーの舞台劇というのはいまも普通につくられているものなのか。とりあえず謎に引っ張られて観ちゃう。面白くなくもない。しかし女子高の同級生が集うことのなかに割りと平然と拳銃が出てくることの違和感は消えなかった。
「1000年刻みの日時計」の根本にこのような農民詩人の存在があったことを知らなかった。本作の主人公である農民詩人木村迪夫氏の作品はそれ自体がドキュメンタリーだ。世の下層に置かれることへの抗議、農業を営むゆえに知り得た自然の様相についての報告が木村氏の詩だろう。同人誌『雑木林』のバックナンバーや、農民画家草刈一夫氏の絵画の、映ったときに画面を圧する迫力に感銘を受ける。自分に文章を書く機会があることを有意義に成せていないことも恥じた。
過去作「キツツキと雨」を思い出す。あの映画でパラレルな関係性として描かれていた父と子の関係の話が全面展開しているのが本作。父の衰亡を嚙みしめる子の風情が良い。「カルメン故郷へ帰る」と「モヒカン故郷へ帰る」は二本立てで上映されるべき。そうすれば、例えば、日本が上向きに成長していた時代には都市に行って突飛な風俗に染まって故郷に帰ることに活気があったが、今の時代では都会で人は疲弊していてむしろ高齢化以外は潜在力ある地方に戻って何かを得る、とか感じそう。
九十年代、ピンク四天王のなかで、佐野和宏は抜きん出た映画的存在感を持つひとだった(あくまで個人の感想です。監督作の本人出演と瀬々作品の主演ゆえか)。凶悪な主演作「追悼のざわめき」もあって、佐野さんは破壊とか殺意を抱えて生きてる若者にとってのヒーローだった。自分が、佐野さんを好きなことを本作を観てあらためて気づいた。佐野さんに絡む西山真来に嫉妬を感じたもの。声を失った佐野さんは過去の彼と矛盾せず、サイレント映画の名優のように居た。ただ見つめた。
「サニー 永遠の仲間たち」の〝暗黒版〟的な趣き。舞台劇の映画化だけに、廃校に6人が集い、事件が起こり、過去へと遡る密室サスペンス風開幕から、謎の転校生の腹黒さが見え隠れする中盤までは興味を惹きつけられた。ただ、終局に向かうにつれ主要人物たちのキャラクターにブレが生じて、肝心のオチ含め、もろもろムリがある感が否めず。女子ばかりの群像劇ゆえ、より微細に各人を描き分け、全員に疑うべき動機を持たせ最後まで撹乱し続けてほしかった。高田里穂と泉はるがいい。
山形の農民詩人、木村迪夫が朴訥と、それでいて痛烈にことばに込め続けてきた思い。叔父と父を戦争で亡くし、農業の傍ら東京に出稼ぎし、ごみの収集をも生業にしながら生き抜いてきた彼が、率直に語る戦争への憤りや社会に投げかける疑問をそのまま、まっすぐに映し出してゆく。タイトル「無音の叫び声」に繋がる、叔父の遺骨を探しに行ったウェーキ島で目にした光景、その燃え尽きて行く累々たる骸(むくろ)の壮絶さが、ラストの牧野村を詠んだ詩とともにしっとりと重く脳裏に残った。
どこにいても、何をしていても、どこか心ここにあらず、つねに数ミリ浮いている男がぴったりだ。松田龍平、『あまちゃん』のミズタクに並ぶはまり役。モヒカン男が妊娠中の彼女と故郷に帰って、病気の父と対峙し、ほんの少し未来を思う。すでに成長しているはずの大人が、大人というものの輪郭をなぞり始める、ごくごくゆる~くかすかな成長を綴った家族映画にして男子のめざめの物語。柄本明演じる父と海を見ながら言葉を交わす、その二人の表情がたまらない。沖田監督ゆえの名場面。
原発事故で40年ぶりに精神病院から出てきた主人公を、佐野和宏監督が存在そのもので演じる。なんという哀しくも清らかなファンタジー。枯れて、なおかつ奥底で潤う純情と、生きられなかったもう一つの架空の人生への喪失感が泣かせる。せめぎ合う、汚れた現実と無垢な魂。原発事故のみならず、お金で誰とでも寝る同級生に唯一の青春を託してしまう男の夢や、無音のまま歌われる大瀧詠一など、悲しい皮肉に満ちた寓話だ。女性が優しすぎる気もするが、だからこその「夢の女」、なのか。