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かつての映画連作「学校の怪談」を思わせる作品で、配給会社の人に「女子篇から先に見た方がわかりやすいですよ」と言われたが、その通りだった。いろいろおもしろい。例えば女子高生たちは、お化けが出るとキャッと叫びすぐ逃げればいいのに、じっと見ていてしばらくしてから逃げる。そうしないと映画にならないのは承知しているが、それが何度もくり返されるので、彼女たちには自分の悲鳴を楽しんでから逃げる習性があるのかしら。女性とホラーについて多くを学べる映画。
男子篇全体を通じて感じたのだが、最初のシーンから各カットの終りがひと呼吸長すぎる印象。つまり女子篇よりテンポがやや遅いと思った。同じシーンがいくつもあるが女子篇の方が見やすく感じたのはそのせいかも。男子が作った料理を食べた女子が「水っぽい」と味のなさを批判すると、「味じゃない。こころをこめて作った気持ちが大切だ」と男子が反論する場面には失望した。もし女子がまずい料理を作り、「味じゃなくて気持ちよ」と言ったら男子は納得するのか。男は遅れている。
私は東京スカイツリーにあがったことはないが、この映画はそのおひざもとの街の人びとの暮しのなかにふしぎなことが起こるという喜劇。人気韓国映画を巧みに下町人情劇に生かしている。古い街の写真館というのは、どこか神秘的な雰囲気があったものだが、そこは過去の世界の映画風景にも通じるタイムトンネルのような役割を果たしているようだ。多部美華子、倍賞美津子、小林聡美など女優陣が楽しそうに女の気持ちを演じており、結果的にすてきな反スカイツリー映画となった。
「お母さんは本当の親じゃないわ」と娘が言いだしたことで、老夫婦に不安と亀裂が生まれる。夫は演じる俳優の現実そのままに声が出ないという設定なので、彼の表情とその動きに対応する周囲の風景描写が重要になってくる。観客は朝の光やトンネルの闇や川の流れや咲く草花の色彩を目にしみこませまがら夫婦の気持ちにはいっていくことになる。演出も演技もさすがだが、スワッピングの場面が古く感じるのは、私がミシェル・ウェルベックの小説『プラットフォーム』を読んだせいか。
男子校と女子校の演劇部員たちが集う合同合宿。その間に起こる数奇な出来事を、女子と男子の視点から別個の作品として描く試みだ。青春映画かと思いきや、途中からホラー要素もちらほら。でも怖くないのでホラーとは呼びづらい。ただ、若者たちの何気ない会話やじゃれ合いを、ラフなスケッチ風に描き出す内藤瑛亮の演出力は手堅く、飽きないのだけど。女子篇では、登場する女子たちはみな達者で良いが、やはり森川葵のヒロイン性が映画の軸になっている。彼女のキラキラ感は面白い。
男子篇は、息子の女の子への感情を自らの死後も気にかけ、執念深くまとわり続ける母親の幽霊が出現。多少は怖くなるかと思いきや、女子篇の物語から何か発展があるわけでなく、女子に代わって男子のじゃれ合いが繰り返されるだけで、同じものを2度観ている印象。視点を変えた2作品、合わせると3時間ある。長い。それならたとえば「ピンクとグレー」のように、A面×B面的な創意工夫をするとか、映画スタイルへの斬新な挑戦をして、1本のユニークな作品を目指してほしかった。
ひょんなことから、73歳から20歳の姿に若返ったヒロイン。多部未華子の確かな演技力、切れあるキュートな一挙一動、表情の七変化にいちいち目を細めてしまう。心が洗われる澄んだ歌声も披露し、彼女の魅力を堪能できる映画。多部の元の姿を倍賞美津子、その娘を小林聡美が演じている。韓国のオリジナル版では息子だが、この変更が大成功。小林(=娘)と多部(=母)のシーンが素晴らしい。母娘の絆を描くと同時に、日本を代表するコメディエンヌの邂逅と継承の瞬間でもあるのだ。
夫の大病も乗り越えた熟年夫婦。が、ある日、夫は偶然、すでに結婚した娘が自分の血を引いていないことを知る。妻への疑念を抱いた男の壮絶な心の葛藤が始まる。もう決して若くない夫婦のエロスと愛を正面から探る日本映画は珍しいのではないか。性描写はかなり濃厚で、特に後半は倒錯した世界に観客を引きずり込むが、一方で全体をどこか冷静な目で見つめているようなところがあって、それがまた別のエロスを映画にくゆらせている。人間存在にまで触れたディープな内容だと思う。
「ベートーベンの第九でモンスターをフルボッコする映画を撮るのが夢だった」と監督がいう通り、その結末部分が無類にみなぎっている。怪事件の連続によって合宿を中断されるも、バケモノ退治それじたいをむしろ部活のようにエンジョイするという、「ハウス」(大林宣彦)よりは「ガルパン」に通じる転倒ぶりがすばらしい。この調子で冒頭から行ってくれたら最高だったのだけど、本篇は設定がまるきり渋滞していてあれこれ散漫になっている。女子の面倒くささ、男子のアホさ、(↗)
教師のダメさ、はうまくとらえられているけど、もっと関係のドロドロ、煉獄の青春が見たかった。「学校」という閉域における暴力と差別の構造にあって、人間こそがもっともおそろしい「モンスター」にほかならないことは、この監督がもっともよく知っているはずだから。若い俳優たちは生きいきとしていて、小関裕太ののそっとしたたたずまい、森川葵の過呼吸っぷりがよかった。計三時間ほどになるが、重複するシーンも多く、二本立てならではの連立方程式のおもしろみには欠ける。
多部未華子はもともとどこか「おばあちゃん感」があるので、今回ははまり役。それだからあまり「おばあちゃん演技」を強調しすぎないでよかったとも思うけど、ここは水田ワールド、この味付けの濃さにがんばって耐えよう。世代でもないのに多部ちゃんのひばりがしみてくるなら、この映画はだいたい成功だといってよいのだろう。ところで(本作はリメイクとはいえ)近ごろ同じような設定ばかりが目立つのだけど、若返りを別の俳優で見せることがそんなにおもしろいことだろうか。
声をなくした主人公と、よく喋る人たちの群像。せりふは説明的で、展開は唐突である。器用な映画ではない。けれど、中華鍋の炒飯に東京がかさなる淫らなモンタージュにひとたび映画が息づきはじめると、ぼくは自然とかれの声に耳を澄ましている。つましいひとつの家族も、教科書が語るこの国の歴史も、「偽り」こそが支えてきたとするなら、嘘をあばくことにどんな意味があるのだろう。声なき声のふるえ、光なき陽の光に、虚構に身をささげたひとりの男の生きざまを見る思いがした。