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導入部分で、もう少しメリハリ良くいかないか、と思ったが、看護師養成の具体的な話になって、語りのリズムは気にならなくなった。機材を使っての練習から生身の人間相手、さらには、実際の患者に関わっていくという、それぞれの段階で看護師という仕事のありようが見えてくるのがいい。ドラマの核は、桐島ココの主人公が、榎木孝明演じる余命僅かの患者の内心に踏み込むところにあるが、その始末の付け方も悪くない。舞台の人吉に行ってみたくなった。お竜さんの生地でもあるしな。
室生犀星の官能ファンタジーともいうべき小説が、石井岳龍の手で、見事に艶やかな映画に仕上がった。清順師の大正浪漫に対して、こちらは昭和浪漫というべきか。但し、清順師の「踏みはずした春」(58)の絵看板は出てくるものの、この世界の感触は昭和初年代のものだ。とまれ、一番の手柄は、赤い金魚の化身である二階堂ふみの存在であろう。大杉漣の作家とのやりとりが中心だが、真木よう子扮する白い幽霊との、いかにも女同士らしい語らいも味わいがある。あと笠松則通の画作り!
ここには、さまざまなテーマにつながる糸口がある。即ち、高度成長期に建てられた団地の歴史と現在、また独居老人の孤独死等々。だが、本作の美点は、そのような問題に収斂しない、老人たち一人ひとりの決して一括りには出来ない暮らしぶり=生き方を浮かび上がらせた点にこそある。だから、死を身近に見据え今を生きる四人の姿がくっきりと見える。それは監督が、彼らをしてごく自然に語らせたことによるが、それには方法以前の、監督自身の立ち居振舞いにあったと思われる。
通常、映画における恐怖は、何か見てはならないものを見てしまったことによる場合が多く、それはスクリーンを見ている観客にも直に伝わる。それに対し、こちらは逆で、何者かに見られる=覗かれるのが恐怖、という点が一応、新機軸か。むろん、それは原作の工夫で、読むという受け身の姿勢には合う。一方、映画では、覗かれるという受け身の演技をする俳優が、いかにリアルに恐怖を表現出来るかが勝負だが、主演の板野友美をはじめまだ拙い。ま、話は悪くないので★一つオマケ。
前半に幾つものくすぐりと小さなギャグがちょこちょこ入るのは邪魔な気がした。医療や看護の場に人間の生の様相があらわれてくることに着目していながら、観ているこちらがコケるようなザックリとした切り取り方で驚かされる部分もある。しかし、病や死を抱えている患者にまだ未熟な看護師が対するという一見負の要素の掛け合わせは確実に劇を発生させた。また、独自の技術や規範のある世界を紹介する、内幕ものジャンルに属する映画でもある。そういうところは摑むものがあった。
よくこれが成立したな、と感心した。金魚とジジイのいちゃつき? いわゆる映像化不可能案件であり、文学として書かれていることに映像という具体をつけることをためらうような原作であると思う。しかし、やった。文学という表現をリスペクトしつつ、ゆえにおそらく大きな抵抗感を感じながらそれを突っ切り、脚本化という反文学的仕事を遂げた港岳彦に賛辞を。そして、やはり石井岳龍は映像のドライヴ感、動きと勢いをこういう題材でもちゃんと出す。観ることの快感が溢れる作品。
ドキュメンタリーについて、自分の鑑賞の解像度を下げ、能動的に観る姿勢をやめてみると、エンタメ的に煽るもの、ただ撮っているだけのもの、気合い入れて撮っているもの、の三つの区分が浮上する(あくまで個人の反応です)が、本作は三つ目だろう。被写体の高齢者の生活感から団地の実景に至るまで、監督の凝視を感じる。題材の捉え方が良い。無縁の老人、孤独死など日本社会の予感としてあるものがこの作から明確に提出された感がある。だから、怖いものを観たなという気もした。
少し前に恐怖映画「イット・フォローズ」を観て、これは米国人にとっての性交は日本人にとってのビデオダビングくらいの行為だという、性病版「リング」だと思い慄いたが、それはさておき、呪いを受けた者の恐怖と脅威が、他人には認知されない妄想のようでありつつ実在し、そのための孤立にこだわることで「イット~」は基礎体力が高かったが「のぞきめ」は主観的な泥と実在の泥の違いが曖昧だった。可能性ある題材だったが。ひとりで横溝正史的陰惨を導入した水澤紳吾は光った。
熊本を舞台に描かれる、看護学生たちが実習中に接する人々の人生悲喜こもごも。一人孤独に末期を迎えんとする男を演じる榎木孝明の鬼気迫る演技は一見の価値あり。ただ、夫の浮気を疑いながら、完璧に美しく化粧を施され死に至る妻や、妻との関係が微妙な強面の僧侶など、登場する人々の捉え方が表層的で、実際の医療現場はこんなにきれいごとで何もかもが済まされるのだろうか? との疑念が拭えず。こなれ切れぬ脚本・演出、そして演技を、〝素朴〟と呼べば呼べるのだろうか……。
金魚の少女・赤子に扮する二階堂ふみが笑い、怒り、甘え、はしゃぎ、舞い、時に凛とし、泣き喚く。彼女が見せる、水槽に湛えられた水のごとく揺らめき続ける、未完成のエロス―。これぞ、蠱惑の二階堂ふみショーなり。日本版「ロリータ」とも呼びたい「蜜のあわれ」をものした室生犀星を俗な老人作家として描く視点は面白く、思いの外振り切ったコミカルな一篇に仕上がっている。鈴木清順監督版を待ち望んでいた者としては、随所にオマージュが散見されるだけに、複雑な思いも少々。
団地の一室でインコや植物、観賞魚を愛でつつ日々を生きる独居老人たちの姿を、87年生まれの田中圭監督が程よい距離から見つめる。夫のDVに耐え、精神を病み、離れて暮らす息子だけを支えにごみ屋敷に暮らす女性と、彼女の面倒を見続ける柔和な〝関口さん〟の関係が象徴するように、「巣箱」と称される古びた団地で孤独と孤独がかすかに触れ合うさまが、ひしひしと切なく、人肌の温もりをもって伝わってくる。人の命は一見、桜の花びらのように軽やかだが、その幹は太く揺るぎない。
カーテンの隙間、換気扇、水道の排水溝……あらゆる隙間から何者かにつねに覗かれているという恐怖。原作の持つ視点は面白いのに、なぜだろう。最後の最後まで恐ろしさを喚起される瞬間は訪れず。ホラー映画のヒロインは序盤から観る者の心惹きつけ、共に手に汗握り、怯え、震え、理不尽な恐怖に必死に立ち向かう気分へと導くことが必須なのでは。なのに本作の主人公は自らは何もせず、ほぼ何も感じず。化け物サイド以上に体温が低い気さえ。白石隼也と入来茉里の熱演に★プラス。