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前にも高校生の合唱コンクールを主題にした映画があったが、合唱コンクールって、そんなに人気があるのかね? ま、当方としては、高校生の恋愛話よりは素直に入っていけるが(苦笑)。もっとも、同じ合唱部の話でも、こちらは、コンクールで金賞を狙うことより、楽しく歌うことのほうが大事、というのが物語の核になっている。ただ、主人公が内気で自分の気持を率直に表せないという設定のためか、演じる山本舞香の無言のアップが長い気がするが、あまり表情を作らないのはいい。
見所は、まず、タイトルが示している通りのエヴェレストの山嶺の壮麗さと、雪のなかで、目を開いたまま凍り付いている阿部寛の顔である。ローマ人に扮しても違和感のなかった阿部寛は、ここで、ネパールに住み着いた天才クライマーを演じているが、その大柄の体躯と髭面が目立つぐらいで、自然に溶け込んでいる。そんな彼を追って、エヴェレスト山中に入るのは、山岳カメラマンの岡田准一だが、ここで気になるのは、撮ることに固執していた彼が、途中でカメラを捨てたことだ。何故なのか?
なんとまあ、饒舌な映画でしょう! 初めの電話からゴルフ場、飲み屋と、まあ、よく喋ること。蒼井優が、最後に「言葉です」というが、これは、どうでもいいことばかり喋らず、大切なことを言えという教訓だろうか? ともあれ、この饒舌は、寡黙な小津映画の対極にあるというしかない。だが、それにしても、小林稔侍の探偵が、調査対象の橋爪功の名前も写真も見ているはずなのに、相手が高校時代のテニス部でダブルスを組んだこともある男だと気づいていないのが、なんとも不思議だ。
モコモコ星人というらしいが、べつだん、そんな名前を知らなくても構わない。ただ、なにやら、モコモコした物を頭から被った連中が、カメラや録音機や鏡などを持って、ジョギングしている者や、その道筋でお茶を配ったり飲んだりしている人や、酒場に集う連中のまわりをウロウロしているのが、面白い。彼らは、映画を撮っているように見えるが、モコモコ星人に映画という概念はあるのだろうか? だが、そう思った瞬間、そもそも映画って何なんだろうか? というギモンがせり上がる。
歌が先にありきで映画がつくられたとはおもしろい。石原裕次郎の映画みたい。「銀座の恋の物語」とか「赤いハンカチ」のような。それよりもう少し旧い時代の歌謡映画のようでもある。つい先頃も「風に立つライオン」があった。と、いう程度の人間にとってこの映画、というかプロジェクトはすごすぎる。もともとは音声合成歌唱ソフトのために想像されたバックストーリーだとは。想像外からの企画、発想だ。いやそもそも知らないんですがね。新作紹介からの引退を考えてます。
ちゃんと出来てない映画ではないか。短軀でマッチョという岡田准一にはトム・クルーズに対するのと似た好感を抱いている。ほとんど巨人族にしか見えない阿部寛と彼が並ぶ画が良く、クライマックスで阿部ちゃんが岡田くんの生命を救うべく彼を背負ったときに何ら不自然さがなかった(リュックぐらいに見えた)のには唸った。しかし、あの改心というか善性の発見みたいなもののためにはもっと前半で岡田氏を悪人として描くべきだ。あとタイアップのモンベルのロゴ見せが露骨すぎる。
「東京家族」のパラレルワールド。同じキャストで喜劇で、という企画の発端が面白い。たしかに「東京家族」はほとんど山田洋次調喜劇になるところを堪えて、渋い映画にしているようなところがあった。本作のほうが、小津の呪縛があった「東京家族」より良いかも。二本立てで二段階で「東京物語」とバトったのか。あと「男はつらいよ」のシリーズ後ろのほう、〝九十年代寅さん〟で、吉岡秀隆の存在感が増していたときにありうる感じがした家族の映画、それがいまやっと現れている。
映画でも芝居でも根底には遊びがある。そこから発するものこそが観る者に語りかける。だが、その遊びを失うことはあまりにも容易で、だからこの世には体裁だけ整ったものがはびこるが本作はその真逆。遊んだ。真剣に。体裁などなく素晴らしい右往左往が延々と展開する。映画のなかに、地球に落ちてきた宇宙人が撮ったという設定の映画が混ざってくる。その撮影行為こそが映画内の人々を見守り、結ぶが、映画「ジョギング渡り鳥」自体が世界に対してそれをやる。とにかく観てほしい!
卒業ソングブーム(!?)とやらで、本作もまずボカロで火が付いた楽曲ありき。ゆえに、最初から概ね予想できるオチへと向かってゆくのだが、ラストの歌で感動の針が振りきれるはず、と観る者を構えさせる分、ハードルが高くなりすぎた気も。言いたいことを口にできないヒロインを中心に、10代の片思いやすれ違いが、昭和的な郷愁たっぷりに綴られ、〝合唱〟も正当に生かされている。もう少し一人一人にとって〈桜ノ雨〉がいかに大切な曲かを丁寧に描いていたら、圧巻のラストになったのでは。
岡田准一と阿部寛。二人の男の顔力そして眼力、その息詰まる戦いに気圧される。友情、という言葉では片付けられない、頂上に魅入られる男と男の生命を懸けた挑み。死を含め、さまざまな不安や恐怖、揺らぎを抱える人間という弱き存在が、圧倒的な自然の脅威に立ち向かう時、唯一武器となるのは、「気」の力なのだと思い知った。劇中、尾野真千子演じる涼子が口にする、「なぜ、そこまでして山に登らねばならないのか」という疑問の答えが、鑑賞中、初めてうっすら見えたような気がした。
びくりとも揺るぎようのない、さすがの安定感。一人一人の個性際立つ〝家族〟という名のアンサンブル。不協和音奏で始める平田家の騒動を、徹頭徹尾前のめりで我がことのように見つめてしまったのは、実家の老いた両親が、映画の舞台のごく近隣で兄の一家と三世代同居しているためなのか。蒼井優のちょっとした表情にもグッときたが、「東京家族」とはまったく違う父親像を顔芸を駆使して熱演する橋爪功に脱帽。笑った後、家族のありがたさにちょっとしんみり。久々に〝映画〟を観た思い。
3・11から5年。東日本大震災の後、映画における虚と実のバランスに確固たる変化が生じていることを改めて痛感。虚と実が混沌としているのは、なにも映画に限らないかもしれないが。映画美学校の俳優たちと、鈴木卓爾監督が即興的に編み上げてゆく、虚実に虚実を重ねて〝入れ子〟にした実験的SF青春群像劇。キワキワな線上を辿るように見守る157分は不思議と心地よく、自由なようで不自由にも思える渡り鳥たちの飛翔が、よくも見事に着地したなぁと、感服。各人のキャラがまたいい。