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力が入ってる割に、この軽さはなんだろう? 渋谷のスクランブル交差点をオープンセット+CGを使って、それらしく見せるには、各パートが相当頑張ったのだろうし、殺し屋に扮した俳優連も、目立った動きをしないのに、それらしい雰囲気を醸し出す吉岡秀隆をはじめ、頑張っていると思う。生田斗真も、よく走っているしね(笑)。にもかかわらず、映画としての疾走感が乏しいのが難点だが、それ以上に問題なのは、無差別殺人を起こす悪の蠱惑的な力を捉え損なっていることだろう。
「哀惜に似た希望、希望に似た哀惜……なぜ、いっそ物々しく歳をとってしまわないのか」という、花田清輝の言葉が、記憶の底から甦えるといえば、大仰に過ぎたか。これは、青春に恋々と執着する作家を批判したものだが、イヤ、作り手の善意は、わかるんですよ。122年もの歴史のある映画館がなくなることへの哀惜の想いも。でも、なぜ中途半端なファンタジー仕立てなんかに、するのかね? 正面から、この立派な「シネフク大黒座」の歴史を辿るドキュメンタリーにすれば良いのに。
ほとんど、佐藤浩市という俳優の存在感だけで、ドラマが成り立ったという印象。出だしは、『滝の白糸』で、といっても、浩市は検事ではなく裁判官だが、裁く者と裁かれる者が、かつての恋人だったという関係から連想がわく。それはいいとしても、尾野真千子演じる恋人の突発的な自殺に、うまく乗れないと、あとのドラマが色褪せてしまう……ところを、佐藤浩市が引っ張っていく。市場で食材を買い求め、釧路の街から外れた一軒家で夕食を作り、独り黙々と食べる、その佇まいがいい。
凝りに凝った映像、というべきか。ロケーションで、一九二〇年代のパリを再現するだけでも大変なことだったと思うが、セピア色に沈んだ画調に、思わず目を惹かれる。そこで、画家としての評価を得る一方、大恐慌前のパリでの狂騒ぶりが描かれたと思うと、一転して戦時下の日本で戦争画に腕を振う藤田へと、あえて説明せず転調させたところに、小栗康平の、賢しらな解釈に藤田を閉じ込めることを拒む姿勢が伺える。ただ、わたしの心に沁みたのは、加瀬亮が狐の話をする場面である。
飽きはしない。だがハロウィーンの渋谷スクランブル交差点に車で突っ込むビギニング、はタイムリー感狙いだろうが現実のカオス感に上を行かれた。実際は轢殺通り魔することが不可能なほどの人混みなのだ。渋谷ハロウィーン狂騒はここ四年くらいで急速にキたが本作は描写がリアルに負けた。やたら組織が暗躍するのもいただけない。それは、現行のもの以外の別の体制を信奉する物語だ。その保守性に不満。殺し屋役の吉岡秀隆と、ギリギリの変な役づくりをした村上淳は良かった。
本作は感傷的過ぎるかも……。私は昨年秋まで僅か三年間だが映画館の支配人をしていた。そこは改装されて別の施設に。本作では脇役の國武綾さん主演作「恋の渦」の上映館で、閉まる日には彼女が花を持って訪ねてくれた。映画「Playback」の製作者松井宏は劇場の床に「この場所はこれまで映画にとってとても大事な場所でした。想像できないほど多くの人々がこの劇場がなくなることを悲しんでいます」と書いた。國武さん松井くんそして「多くの人々」こそ天使的だったね。
なんというか、ノンジャンルな映画(私は本作をそう捉えた)はどう展開するかわからないところがあるので観て面白い。学生運動の描写は年代的にあれでいいのか、と思ったが、尾野真千子が佐藤浩市に対する愛ゆえの諌死を遂げ、いきなり二十五年後になって、佐藤が尾野を思い出させる本田翼に遭遇するとか、地味なんだが先が読めない、それはいいんじゃないか。あと本田翼はちゃんと覚醒剤をやってそうに見えた。佐藤と本田の或る夜のエロスの気配と、本田の実家荒廃描写が良い。
オダギリ氏が藤田嗣治をやったのはよかった。藤田はとにかく当時の最先端であったわけで、その、俺はカッコつけてやっていくんだ、ということが骨身に染みついた感じ、それがよく出ていた。フォトジェニックだった。映画全体もそう。黒澤明の「夢」とかのような、美術映画の、観ることを待たされる豪華な退屈、観客を神妙にさせる時間が流れる。説話の時制は飛ぶ。若き日に西欧と対峙したためか、自身の生を創作できると信じた男が、しかし彷徨した、という主題はよく出ていた。
冒頭、ハロウィンでごった返す渋谷のスクランブル交差点が忠実に再現され、なかなか壮観。俯瞰で捉えられた、交差点に蠢くバッタの群れ。物語を象徴するこのシーンも鮮烈な印象を残す。伊坂幸太郎ならではの、気障の一歩手前の粋や洒脱の妙も息づく、思いの外大人向けの映画だ。気弱で受け身の生田斗真、目で殺す浅野忠信、狂気を覗かせる山田涼介……キャストの健闘も光る。バイオレンスとメランコリーの塩梅も嫌いじゃないが、原作と異なる部分で払拭し切れぬ疑問も残り、そこが残念。
昨夏122年の歴史に幕を下ろした、実在する広島の映画館、大黒座。取り壊し前に撮影を行った本作、狙いはそのまま〝日本の「ニュー・シネマ・パラダイス」〟。各地で名画座が姿を消してゆくことの悲しみと郷愁、映画への愛はわかるが、伝わるのはそこだけで、映画としてどっしり通った筋もなく、説明台詞に終始されては、興も覚めてしまう。劇中の最終上映作品「シネマの天使」の映像や内容をほとんど明かさず、劇場奥の「開かずの間」に並んだチラシで泣け、というのはさすがにちょっと。
北の国でたった一人、贖罪に生きる男と、やはり孤独を抱えた若い女。二人の束の間のふれあいが綴られるが、白髪交じりの佐藤浩市から立ち上る色と温度が、雪の大地の白さと溶け合い、しっとりと胸に沁み入る心地よさを感じた。本田翼に疑問はあるが、危うい二人が生々しくなりすぎないためには、ほどよい配役だったのか。忠実ではありながら、短篇である原作以上にキャラクターや結末に厚みを持たせた脚色に、正しい映画化の姿を見た。「リスボンに誘われて」を彷彿とさせる終幕もいい。
鑑賞後、手元にあった藤田嗣治画集を久々に繙いた。度々目にした自画像に、オダギリ ジョーは確かに似ている。パリを舞台にした前半は、モデルのキキや妻ユキとの華やかでビザールな「乳白色」の日々が描かれるが、戦争画の時代へと突入する帰国後は、力作『アッツ島玉砕』をモチーフに、ひたすら重く、鉛色の様相を呈してゆく。引きに引いた目線は、まさしく小栗監督の味でもあるが、もう少し藤田嗣治という人物と絵画に寄ってほしい気がした。各シーンが一枚画のようにただ、美しい。