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生放送中の番組で悪魔を召喚する設定自体は少しも目新しくない。主軸は怪奇現象ではなく視聴率を稼ごうとする制作者側の野心であり、ホラーとしての怖さは度外視だ。私たちはどうして放送事故を恐れるのか。テロップのみの固定画面になぜあんなにも不安を煽られるのか。スポンサー企業のCMを放送できないリスクは理解できるが、ライブ=止められないという思い込みはまったくのナンセンスで、本番中はカメラの前を侵すべからずという撮影現場における不文律の理不尽な滑稽さを思わせる。
往年の東映の特撮シリーズや実写版の魔法少女もの、あるいは円谷プロの特撮ドラマや実相寺マジックの匂いを感じるような一本。宗教と信仰への皮肉、ブラックユーモアのテイストはライナル・サルネット監督の前作「ノベンバー」と共通しており、東方の三博士のような三人のカンフー達人も登場する。端正なモノクロ映像でダークファンタジーの様相をまとった前作に比べると極彩色の本作は荒唐無稽で奇想天外な世界観が全開。ただし、表現の飛躍に対して感情が追いつかなかったのもまた事実。
映画界の黎明期とサイレント時代を支えた大スターである先輩にジャンヌ・モローが迫った貴重なインタビュー映像。特にグリフィスに関する話は興味深く、スペイン風邪が流行った「散り行く花」の撮影当時、監督が罹患せぬようマスクを着用して臨んだ現場から指でスマイルを作る芝居が生まれたエピソードは、コロナ禍を経た今こそ響く。女性が働いて自活することが困難だった時代に生涯独身を貫いたギッシュが、孤独についての質問に「プライバシーは唯一の贅沢」と答える姿が美しい。
一台の車で父親と生活を共にする年頃の少女。各地を転々とする日々では同世代や外部の誰かと安定した人間関係を築くことができない。自分で買った下着をトイレで身につけ、着替えも入浴もプライバシーはなく、夜は狭い車内に父親と並んで眠る。その歪さと貧困は今の日本社会でも容易に想像できてしまう。脱出を求めて頼った男性もまた救いにはならない。男性中心社会への絶望と限界。そして辿り着いた海。「大人は判ってくれない」の少年から半世紀以上、少女はようやく同じ場所に立つ。
こういう怖さのホラー映画、ひさしぶりに観た気がする。怖かったし笑えたし、すべてのキャラクターが類型といえば類型だけど悲劇的で、面白かった。そして続篇が作りにくい、いさぎよい終わりかた。テレビ局ごと地獄に堕ちるのは中島らもの傑作長篇小説『ガダラの豚』を思い出す。日本だとホラーの元凶はメンヘラの幽霊か田舎の因習かサイコパスな人なのが多いけど、与党に影響力をもつカルト宗教が悪の本尊だと設定を改変してネトフリで『ガダラの豚』をドラマにしてくれないかしらね。
困った映画ですね。やんちゃだ。しかも監督はあの「ノベンバー」が長篇第一作で、これが第二作か……。異様に美しくて可愛かった前作も、このふざけた映画とテーマは同根ということか。なるほど、そんな気もしてきた。どっちも土着の宗教の話だもんね。「ノべンバー」もじつはギャグ映画だった説までありえるが、それにしてもこれだけ堂々と印象の振り幅がつけられるのは、第一作が評判よかったのに自己模倣を要求されてないということで、きっと楽しい環境で仕事できているのだろうね。
映画創成期に、出演者の顔の美しさという「武器」が、クローズアップの技法を育てた。リリアン・ギッシュという美しすぎる眼と唯一無二の瞳の角度をした女の子が存在したから、その技法が観客の心に定着した。AVを撮っててもいつも思いますが、どんなジャンルの今では誰にでも知られた技法も、それを世界で初めてやった人がいて、それを世界で初めてやらせた人(思いついて命じてやらせた人ではなく、その人の存在に吸い込まれるように、やったほうは思わずやってしまった)がいるのだ。
こういう静かな、説明が少ない、監督が独自のことをやろうとしてるまじめな映画に、たいていセックスがでてくるのはなぜなのか。われわれ都市生活者はセックスにまったくありつけない(または求めない)か、やりすぎてセックスの意味を失ってるかで、映画(他人の、意味ある人生)とAV(僕が撮ったのも絶対入ってると思う)をかかえ荒野をゆく父と娘は野生動物のようにセックスとでくわすわけだが、セックスに縁のない人はこの映画をどう観ればいいのか。荒涼とした風景が、とてもよかった。
生放送のバラエティ番組で起こるハプニングは、ホラーとの親和性が高く、視聴者に他者と共有できない孤独な不安を与えるものだ。今や売れっ子の助演俳優デイヴィッド・ダストマルチャンの、満を持しての主演作。背が高くスタイルも良いので、70年代風シルエットの背広姿と髪型が、フェティッシュな魅力を放つ。悪魔憑きなどの表現は凡庸なものの、当時の雰囲気を再現する美術や映像へのこだわりは愉しい。ファウンドフッテージなのに、カメラがセット裏の内緒話などに立ち会っているのはご愛嬌。
北欧のロックといえばやはりヘヴィメタルになるのか。最初に天から降ってくる、東洋系の三人のカンフーマスターはかっこよかったが、それ以降は失速してしまった。可愛らしくカラフルな装飾も、少し前のポップな映画でよく観たものだし、ロシア正教会がカンフーの鍛錬を積んでいる設定も、出オチ感は否めない。全篇にわたってギャグが笑えないのもつらく、主人公が正教会からいきなり高い徳を積んだ人物として扱われるのもありがちだ。彼を取り巻く女性たちの役割も、宗教が持つ差別的視点から脱却していない。
リリアン・ギッシュは素朴な役柄でしか観たことがなかったため、インタビューの席に赤と黒の瀟洒なチャイナ服で現れた姿に、女優としての矜持を改めて認識した。まさにハリウッドバビロンの時代に清楚な佇まいでいられた精神が、いかに強靭であったかを思い知る。グリフィスを尊敬しつつも、数年間共同作業をした恩師にすぎず、映画より舞台俳優であったことが印象付けられる。監督で聴き手のJ・モローは様々な角度から微笑むショットがあり、尋ね方は謙虚だが、自分の見せ場作りに余念がないのはさすが。
草も生えないゴツゴツとした暗い岩場から始まり、オンボロ車に寝泊まりする父と娘の侘しい日常を長回しで追っていく。二人旅が普段の生活となれば停滞も生まれ、移動で眺めが変わっても寂寥感が立ち込める。感情的になるのは男盛りの父の性的な問題で、娘は母への裏切りとして怒りを露わにする。娘の外泊は父を不安にさせるための同害報復だが、父の人肌恋しさも娘はどこかで理解していると思う。静謐な演出は些か退屈さも招きつつ、野外上映に向けて砂を巻き上げ疾走する車の群れのショットなど印象深い。