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ロングラン上映、ドラマ化もされた人気エンタメシリーズだが筆者は本作が初ベイビーわるきゅーれ。今回は現代の若者像について考えさせられる4本のラインナップだ。なるほど伊澤沙織を筆頭に銃、ナイフを用いてぶつかり合うガチなアクションシーンは(ややめまぐるしくも)見応えあり。だが、いかにもゆるくてテキトーな「現代の若者的」であるイメージを投影された「若い女の子たち」のキャラクター像はただ間が抜けているように思えてキツいし、持ち味であろう愉快さが悪目立ちしている印象。
10代が無邪気でいることは悪いこととは思わない。初めてデモに参加する者、「気楽にやろうよ」と過ごす者、今を生きる等身大の高校生たちの心情、葛藤、時にはちょっとした傲慢さ、おふざけなどをもあくまでも等しく愛と尊敬をもって描写したこの眼差しはきっと若者たちを優しく鼓舞することだろう。劇中での音楽そのものの在り方も魅力的だ。主演ふたりも迫力満点に美しいが、三枚目に徹する友人キャラが実は最高に格好いい。「声」はそれぞれ十人十色と思わせる。
自動扉は開閉するのに出ていくことはできない虜囚たる我々はもう、不条理文学談議をしている場合でも、神など待っている場合でもない。新しい図書館における、内輪的なぐるぐるとした遊戯は悲しくも「現代的」と言ってしまえるのかもしれない。「去年マリエンバートで」「世界の全ての記憶」といったレネ的不在と記憶の、そして「皆殺しの天使」的囚われの物語だが、暗示的な世界に対してやや雄弁な説明的なセリフが多いせいか、生きているものと死せるもののあわいにある官能性に欠ける。
坂道グループのメンバーはもう今や2000年代生まれがほとんどなのかとビビる。浅草や竹下通りなど、観光客でいっぱいの実際の場所に溶け込んでいる撮影は、プレスによるとロケの日数がかなり限られていたとのことで、修学旅行ならではのドタバタなタイムテーブルとマッチして効果的。青春映画として以前に、日向坂46とアイドルファンのための映画といえばもうそれまでかもしれないが、彼女たちそれぞれのキャラの立ちっぷりもチャーミングで、気楽に楽しめるエンタメ作。
アクションシーン、とりわけ格闘シーンの充実ぶりには目を瞠らされる。運動をとらえるのが映画の本来的なあり方なのだから、いかにも映画的な作品とも言えよう。しかし、いかにすばらしいアクションでも、そればかりが続いては単調になってしまうのが映画でもある。「ベイビーわるきゅーれ」シリーズは、少女たちの日常と殺し屋稼業を織り交ぜて描くことで成立してきたはずだが、今回の「ナイスデイズ」篇は、アクションシーンを盛り込みすぎたせいで、本来の持ち味が薄まっている。
どこか北野武の「キッズ・リターン」を思わせるような不良少年物の骨格を保ちながら、近未来からの視点を借りることで、閉塞感ただよう現代の日本社会までも鮮やかに浮かび上がらせた、21世紀的な青春群像劇の秀作と言えそうだ。高校の管理体制に反発する生徒たちを描いた映画というのも、なぜか最近はあまり見た記憶がなく、それだけに、少年・少女たちのみずみずしい演技が印象的だ。何度となく歩道橋で語り合い、左右に別れていく少年二人の姿がほほえましく、そしてもの悲しい。
題名が示すように、ベケットの戯曲が下敷きにされており、芝居の上演に向けて稽古をしている人物たちが登場する。物語の展開も不条理劇風で、総じて、きわめて演劇的な作品と言えるだろう。しかしそれでいて、夜の暗闇を身にまとうように佇む建物をとらえた冒頭から、ひとつひとつのショットの力、そしてショットとショットの連なりが生む力が伝わってくる。このふたつの力が交わるなかで作り出される独特の空間や人物の奇妙な存在感は、映画的表現のみごとな達成にほかならない。
修学旅行で上京した女子高生たちがそれぞれ東京の街をさまようという設定はそれなりに映画向きであり、東京各地の風景も悪くなく、女子高生たちの個性も表現できてはいる。映画史にはすぐれたアイドル映画も存在するのだから、女子高生たちを演じるのが演技経験のほとんどない日向坂46のメンバーであることもさほど問題ではない。しかし、女子高生たちが東京の風景のなかにただ点在するショットの集積にとどまり、それらが有機的に結びつかない作品になってしまっているのが残念だ。
少女が主人公でハードなアクションをCGに頼らず(編集時に何かはしているのだろうが)こなすというのがシリーズの目玉らしいが、それがここでは池松壮亮相手で一段ハードルが上がっており、とりわけ銃とナイフを両手にしての近接戦闘は両者ともに見事というしかない。ただ結局なぜこの二者が対立しているのか、戦いの意味がよく分からない。また3作目ともなれば、個性豊かな敵であるだけでなく、彼女らの新しい側面を露わにする存在として設定すべきではなかったか。
映画の冒頭に、大人たちは管理を強めようとし、一方若者はそれに反抗するという旨の字幕が出るのだが、本作の内容はそれをそっくりそのまま映像化したものだ。語りたい主題があり、それを映像として実現するというのが映画作りではあろうが、しかし映像=音響がそれを逸脱しようとし、主題とは別の意味を生み出し始める、その葛藤に映画の意義はあるだろう。一定の意味に映像や音響を押し込めるだけであれば、本作が仮想敵としている「大人たち」のありようと大して変わるまい。
ピアニストは到来すべき芸術=「詩」であり、やがて来る「死」でもあるゆえ、本作は芸術とは、生きるとは何かを問う原理論的作品としての深みを得る。しかし「原理」を言うならば、舞台上の現存に縛られる演劇でこそ「不在」は逆説的に強い存在感を放つが、映画の場合、「在」っても真偽不明のいかがわしい「映像」、その嘘の力こそ映画の面目では、という疑問も浮かばないではいない。とはいえ、与えられた機会を生かして自身の映画に仕上げた力業は、一つの範例たりえよう。
修学旅行に来た女子高生たちが、班長の統率を逃げ出して各自勝手に行動し始める。アイドルグループに何の興味もない身としても、わちゃわちゃした群像劇として面白く見られたのは確かだ。ただ、題名になっていながらトーキョーが新鮮に見えてくるわけでもないのは、それだけ東京の都市としての魅力が薄れている現在をドキュメンタリー的に反映していると言うべきなのか。ならば別の場所でもよかったし、その地に新たな視点を与えることの方が映画は輝いたのでは。