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宣伝文句を頭に入れて見ていたのだがちょっと予想外、ただごとではなく、ひっくり返ってしまった。冷凍庫の食材をあたためることさえしない、だらしない、近くにいる(いるからこその)男たちの愛情を試しまくってはがんじがらめになり、自傷していることも気がついていないであろう「激情的」に見える女の像を、距離とさめた温度を保って描きあげた山中瑶子、天才的ではなかろうか。彼女と河合優実が、若い女の青春ポートレートを塗りかえた。ああ、20代前半のあのころ……キツかった!
赤ん坊を世話する若い母を見つめた光景や、学校で手話を友人に見せてみせる少年の顔など、日常に溶け込み繊細に主人公の成長を追う前半部分に比べると、どうしても成人後の彼の心の揺れ動きは粗い印象が。気になったのは想像以上に、物語内に父が不在で、働きに出ている彼、家にいる母、マッチョな祖父に耐える祖母と、世代の差、男と女、そういったさまざまな二つの世界の重なり合いも自然と浮き彫りになっている。とはいえ、小さく遠ざかっていく母の背中などはやはりほろりとする。
現在と過去、男と女の眼差し、ふたつの世界を同じ質量で提供してみせる館。海沿いのホテルというドラマにぴったりなロケーションも、ひたむきに流れる名曲も露骨さなしに、「海」という場所そのものが持つ時間のちからを借り、個人の物語をも超えてゆくその美しさ。永遠と感じられるような甘やかなひとときは始まりの一瞬であり、それをたぐり寄せるべく、文字通りどんなになくした符号を探し続けたとて、あとは失い続けるのみというやるせない真理もさらりと暴き出す。
主人公と、物語を進行させるためだけに存在しているような都合のいい登場人物たちや台詞にくわえ、肝心の二人が打ち解けていく様子がまるでダイジェストで、現実の強度がゆるいために、夢のミュージカルシーンがひどく浮いて感じられてしまう。男が(彼らに名前を与えないのも効果的と思えないが)薬物に走ってしまったのにはさまざまな葛藤があったのだろうと想像するも、娘との和解シーンもとってつけたよう。歌声はもちろん素晴らしいのだが、ドビュッシーの言葉の引用も的外れでは。
映画史においては、「不良少女モニカ」をはじめとして、さまざまな作品で不良少女が描かれてきたが、そのどれともまったく違う新しい不良少女がこの映画とともに誕生した。「勝手にしやがれ」のベルモンドよろしくタバコを手放さないカナの言動は人びとの理解を容易に寄せつけないが、山中瑶子監督はそうしたカナを、それこそナミビアの砂漠の水飲み場にやってくる動物たちを眺めるように、ひたすら見守る。そうした視線を受けとめて、カナの行動が映画ならではの躍動感を獲得するのだ。
自身もコーダである五十嵐大の自伝的エッセイの映画化である。当然ながら、宮城県の小さな港町に住む聴者の少年が、聾者である母親との関係に戸惑うようになる映画の前半がむしろ重要だし、そもそも呉美保は、地方での家族のあり方を描くのに手腕を発揮する監督でもある。だが、この作品では、主人公の大が乗った列車がトンネルを抜け、東京へと向かうことでむしろ映画が動き出す。つまるところ、少年から大人への旅立ちとして成立している物語が、強みでもあり、弱みでもある作品なのだ。
どちらかと言えば小品の部類に属するような映画だが、かつてヌーヴェル・ヴァーグによって生み出された傑作にもそうした小品が少なからずあった。しかも、ひとつのショットのなかで鮮やかに時間を遡ることで始まる後半部において、海や空や避暑地の光景はまさにこれがヌーヴェル・ヴァーグ的なヴァカンスの映画であることを示している。佐野から凪へ、そして凪からアンへと持ち主を変えつつ、オフュルスの「たそがれの女心」でのイアリングのごとくに物語を紡ぐ赤いキャップが印象的だ。
中村耕一、そしてとりわけ遥海の歌がすばらしいし、ミュージカルシーンの華やかさにも目を奪われる。だがそうした音楽関係の要素を取り除いてみると、劇映画としてのあり方に物足りなさを感じてしまう。主人公の二人が隣人で、職場も同じという偶然があっても悪くはないが、それが映画的に活かされているかというと疑問だし、なにより二人が古ぼけたアパートに流れ着いているという設定が重要であるのに、そのロケーションがほとんど書き割りのようになってしまっているのが残念だ。
終始どこか不機嫌で、本能的に生きている女性。映画はこの女性が生きる世界をリアルで自然なものとして演出する。その場の光だけで撮ったかに見える照明、故意にダラダラした長回しや無造作なズーム、隣の席の声が意味として入ってくるリアル音響感等々。「自然」で「等身大」の存在である彼女が生きることに苦しむなら、それは世界の方が異常なのではと言わんばかりだが、しかしこの作為を作為的に抹消した「自然」という不自然の方が、周囲の偽善以上の欺瞞でないとは言えまい。
両親が「普通」ではないとの気づきから、色眼鏡で見られることへの反発、コーダとしてではない自分の希求へと、主人公のアイデンティティをめぐる葛藤が淡々と時系列に沿って描かれるだけに、初めて時間軸が揺らぐラスト、過去の母親の後ろ姿に、コーダであることも含めて自分なのだと自己肯定に至り、記憶が溢れ出して両親と同じ音のない世界を体感する部分が生きる。奇を衒った表現もなければ、大事件も起こりはしないが、一個の人間の等身大の大きさを確かに感じさせる。
前半では妙に投げやりで、奇矯な行動を繰り返すだけの変人にしか見えなかった男が、後半の二人の出会いのフラッシュバックにより、それが妻を喪った悲しみによるものだったと判明する構成。順序を逆転させることで、またタイトルや劇中歌われる歌がハッピーであることのアイロニーという作為によって痛切さを「自然」に演出しているわけだ。後半における二人の交情がそれこそ「自然」に見えるだけに、後半を前半への答え合わせに貶めるような作為がかえって邪魔に思える。
一度地に堕ちた歌手と、同じく底辺に沈んでいた女性が、共に助け合い、歌によって再び活路を見いだす。舞台は日本の地方都市、主人公らが住むのは路地のアパートだが、女性が歌うのは英語、しかもその歌詞は前向きで多幸感に満ちており、なおかつ歌い方も朗々、ミュージカル風に演出される部分もあって、ほとんどディズニー作品のように聞こえる。泥臭い物語と歌が水と油、昭和の平屋住宅にシンデレラ城が乗っかっているようだ。「PERFECT DAYS」を連想させるのも不利に働く。