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いつ帰ってくるのか、帰ってこられるのかどうかもわからない不在の長男を待つ拠り所のなさを、メルテム・カプタンの演じる肝っ玉母さんの強烈なキャラクターで強引に押し切る。その原動力が無条件の母性というものにフルベットしていて、劇中の訴訟でもそれを最大の武器として民意に訴えているのがしんどい。彼女にはラビエというファーストネームがあるのだが、邦題では「ミセス」と改訳されているのも、人間であることより母であることが存在意義のすべてとされているようでつらい。
友達の家で出された手作りのおにぎりを食べられない。あるいは親戚一同で集まったとき、他の一家のルールに触れて驚いたり拒絶反応を示す。そんな経験は誰しも心当たりがあるのではないか。これは家族という最小単位のコミュニティ間で起こる摩擦であり、自分の家が正しくて相手の家が間違っているわけでもないが、それに近い感覚を覚えてしまう。この言語化しづらくどうしようもない違和感を可視化する本作の過激な試みに、その手があったかと思う。他人の家という異文化の空間はかくも恐しい。
真実は我々が思うより強くない。何らかの情報をめぐって特定の人物や対象がダメージを受ける可能性のある場合、その話が本当かどうかよりも、疑惑が立ち上がった時点で負けなのだ。それは新撰組でも不穏分子の排除に用いられた手法だったし、SNSのゴシップやフェイクニュースでも同じことが言える。そして学校という社会の縮小版においても。日に日に緊張感を増す空気を作り上げた子供たちとの連携と、このゲームに勝者がいるとしたら誰なのかを問うラストカットに目を奪われる。
移民が暮らす集合住宅の一室で人が亡くなり、大勢の手に担がれた棺が、狭い通路や階段に阻まれながら外に運び出される。その過程でこの居住区の状況や問題が一目瞭然になるだけでなく、ここに生きる人々の息づかいまで顕にしてしまう描写が素晴らしい。声をあげて行動する住人たちの力を体感させる音の使い方も効いている。これが日本だったら成り立たない絵面だと思いつつ、彼らの闘いが成功しているとも言えず、武力の応酬では誰も救われないという現実の再生産に虚しさを突きつけられる。
息子が突然いなくなった母。息子は自分の意志で帰ってこないのではなく、遠い外国で幽閉されてしまったのだ。しかもドイツの友好国であるはずのアメリカの兵隊から拷問をされている。ほんとうにひどいことが世界中でおきている(こういう外国映画を観て「日本はまだマシ」とは言いたくない)。だけどこっちに元気があるうちはジタバタはしてみるものです。がんばるおっ母さんとマジメな弁護士のユーモラスな凸凹コンビの姿を見ているだけで、笑うべきところじゃなくても笑みがこぼれてしまう。
外国や田舎で地獄のような目にあうホラー映画はたくさんあるが、これは前半というか3分の2までずっと具体的な恐ろしいことはおきず、ただただ嫌な胸騒ぎと自己嫌悪(しかも主人公の自己嫌悪が観客に伝染する)が延々と続いて、すばらしい。本当に気分が悪く、ラスト近くでやっとホラーになってくれてむしろ安心した。終わりかたがまた絶望的なのだが、この絶望ってきっと聖書についての知識があると、もっと絶望的で、もっと呆然とできるんだろうな。いつか牧師さんの知り合いに訊いてみよう。
ヨーロッパでも学校教員のなり手がいない問題は深刻なのかしら。どこの国でもそうなのだとしたら、それはなぜなのか。同月公開の「胸騒ぎ」では他人は何を考えているかわからずホラーなのかどうかしばらく判断に迷わされたが、こちらは「これはホラー映画ではない、というそのことが恐ろしい」じつに社会的な映画だった。観客にも主人公にも、他の登場人物が何を考えているのか、わかりすぎてしまうのが恐ろしい。結末もホラーの終わりかたではなかった。希望はほんのちょっとだけあった。
同月公開の「ミセス・クルナスvsジョージ・W・ブッシュ」と同じく、人種や経済格差の前でまったく公平ではない「民主」政治や無関心な世間から、排除され、軽くあつかわれて侮辱される人々がテーマだが、こちらはそれを極めてシリアスに描く。生活に余裕のある側の(とは本当は限らないのだが)まじめな人が、自分はより良い人間であろうとして結果的に弱い人たちを傷つけるどころか、生活まで奪うことになる現実。これは資本主義が、というか人類が背負ったバグなのだろうか。
クルナス夫人のように陽気でふくよかで、華やかな女性はいる。政治にうとくても収監された息子の解放のため、奔走するイメージそのものの外貌だ。その明るさと経過する日数の乖離が恐ろしい。役所の書類はなぜか読みづらい文章で書かれていて、意味を解するのが難しいのはどこも同じか。それがさらに複数の言語にわたってしまうと、絶望的な気持ちになる。本作も人権派弁護士のおかげで理解できるが、被監禁者がどういう理由で、なぜたらい回しにされるのか、根本的なところが知りたい。
こういった生理的な不快感を呼び起こすスリラーも、随分流行が続いている。本作は早くもリメイクが制作中で、かなりどす黒い好奇心を刺激するのだろう。“断り切れない気の弱さ”は、誰しも経験があるだろうし、脚本もその流れをうまく作っている。話が気になって、技術面の注視は忘れるほどだった。ただ、この悪意ある人々の労の取り方は、厭な映画を作ることが目的過ぎて、現実味が乏しく不自然だ。そして動体視力の良い人なら視認できる残酷な幼児虐待カットもあり、嫌悪感を覚える。
流行の厭な映画の一種だ。教室や職員室で起こる盗難騒ぎ。犯人は職員の可能性も高く、主人公の女性教師カーラはPCの録画モードで犯人の腕だけを捉える。映画は意図的に建設的な方向に議論を進めない。同僚はカーラの行動に対し、他人を疑う行為が不快だと言う。特定の誰かを疑わずに犯人を捜す方法を提案するのではなく、だが問題を放置する気でないのなら、どうしても付随してくることだ。生徒たちも流され、視野狭窄的に人権問題を訴える。ラストの玉座のような演出も意図が不明。
団地の取り壊しの場面から始まるのは象徴的だ。そして新市長が移民や貧困層の切り捨てに急進的な姿勢を見せるのが、日本と似ている。ラジ・リは前作の「レ・ミゼラブル」ではほぼ男だけの世界を描いたが、団地に暮らすのは老若問わず女性もいる。しかし女性のアビーが指導者になるのは難しい。貧困地区が犯罪多発地域と重なる傾向があり、団地の温存もひとつの生き延びる術にすぎない。問題の解決は複数の人間で対処しなければ難しいのに、女性のアビーは一人で立ち上がるしかない。