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「性愛」という言葉自体が、男にとって都合のいいものではないかと思ってしまう。喫茶店という場で堂々と陰部が描かれた絵を広げる、自分の倍はする歳上の男に話しかけられ、恐怖心もなく家に上がり込み、あっという間にその男に惹かれる若い女。辻村(柄本佑)との関係の始まりだって不本意だ。デートレイプされ、「先生」や「文化」のためだからと言いくるめられた後のヒロインがさも自主的に、というように愛だの私は自由だのと語る、いや語らされているのにも啞然とする。
ものを作る、作りたいと思っている者たちが主要人物だ。殺人者になる「さとくん」も。殺傷事件の舞台となる重度障害者施設での入所者の人権問題、犯行におよぶまでの彼の姿と並行して描かれるのは、主人公の作家としての葛藤とエゴ──自分の作品を作りたいがために、そこの景色を、問題を、起こっている事実を創作物のひとつの材料として捉えてしまう姿。スクリーンに向かって同じ方向を見つめるだけではなく、他人事としてではなく、起こること/起こったことを正面から対峙する姿勢を問う。
飲み込まれそうに鮮やかな緑色が犇いて、突如出現した謎めいた女が虫をぱくり……<禁断の地>へ誘われて監禁される男たちの物語、へ抱く予想と期待にそって、映画は恐ろしくスリリングな快走スタートをきる。和服姿もいればワンピース姿の者もいて、だがカラコンはお揃いの女たちは、自然界とはまた別の裂け目からやってきたような妖しい存在感をそれぞれ発揮。そんな彼女たちと、びくびくしながらもどこかおっとりとした風の竹野内豊演じる主人公が与える安心感のバランスが面白い。
当時にタイムスリップする場面での壮大で美しい雪景色の後は、ほとんど人物が配置された室内の画がほとんどになるが、文化財であるという撮影地の家々の内部、登場人物たちの着物の色彩、美しい紅葉、金属や炎の輝きと、細部まで見つめることの楽しみに溢れている。何度も流れる感動的な音楽に少々ムズムズしてしまうものの、北乃きい、森崎ウィン(パッと振り返り目が合う、ベタなのにいい!)はじめ、真の主役である職人たち、共演者たちの表情も生き生きとチャーミング。
禁欲的な春画先生と積極的な弓子、そこに野放図な辻村がからむという関係をユーモアも交えつつ描き、春画というデリケートなテーマをうまく扱っている作品だ。物語は、先生の亡くなった妻の双子の姉の登場とともにいわば転調し、人物たちは春画の世界を現代的に生きるようになる。そうしたなか、坂の上にある先生の家のロケーションの味わい深さに加え、襖や障子で区切られた日本家屋内の空間がうまく使われている。日本間の部屋から部屋の移動が映画的なアクションとして魅惑的だ。
森の奥にある重度障害施設で起きた衝撃的な事件を描いた作品だが、その事件そのものよりも、障害者が施設に隔離され、そこで虐待が起きてしまうという、社会構造そのものに起因する問題に向き合い、さらに「人」とは何かと問いかける。その問いに対する明確な答えはおそらくない。だが、迷いつつも、問い続けることが大事なのだ。映画のラストで展開する緊迫したクロス・カッティングは、性急に答えを出してしまった者と、愚鈍なまでに問いにこだわる者の対比でもあるはずだ。
現代社会に対して重要なメッセージを突きつけつつ、エンタテインメント性を置き去りにしていない映画ではある。だが、結果的にはどっちつかずの作品になってしまったという印象は否めない。物語としての構築性はそれなりにしっかりとしている。だが、6人の女がそれぞれただの象徴にとどまり、俳優の演技とは裏腹に、薄っぺらな存在に見えてしまうのだ。そもそも、森にいるのがなぜ「女」でなければいけないのか? そうした発想もただ古めかしく感じられてくるばかりだ。
明治時代に、福井の片田舎でメガネづくりを一から始めた人びとの物語に登場するのは、いずれも誠実でひたむきな人物ばかりで、観ていて清々しい気持ちになれる映画だ。しかし、それぞれの人間にあるはずの多面性が排除されることで、映画そのものが一面的なものに見えてしまう。せめて兄嫁と義理の弟のあいだの許されざる恋をもう少し描いていれば、多少は変わったかもしれない。映画が一面的になるなかで、本来は映画的にはおもしろくなるはずのものづくりの部分も色あせてしまった。
春画×先生という結びつきに意表を突かれるが、見終わってみると絶妙な題と分かる。禁忌などとは無縁の大らかさ、かつ表現として洗練を極めた春画の魅力に目を開かれるヒロイン。しかし教えることは教えられることでもあり、春画の自由を解きながら自らは禁欲的な先生は、生徒に禁忌を破るよう導かれ(調教され)る。鳥、傘、そして弓などの小道具も見逃せない。ヒロインの名を知った先生が弓を引く動作、そこで引かれた弓がラストに到着する。君にたどり着くまで僕は何と回り道したことか。
見たくないものは隔離(排除)という社会の意志は、我々自身のそれではないのかと本作は問う。かつて障害を負った子を失い、今も妊娠した子が障害を負っていないか怯え、中絶(排除)を考える宮沢は我々自身だ。原作にない宮沢夫婦が、隔離された世界に我々をつなぐチャンネルである。そして宮沢が見いだす抵抗の術も、つなぎ、そして開くことだ。窓を開く、声を発せないものの声を聞く、夫と手を合わせる。閉じるから開くへ。絵空事かもしれないが、芸術は絵空事の力以外何であるのか。
山奥の屋敷周辺の森が二人の男を閉じ込める迷路と化す。そのカギを握るらしき六人の女。狂気の父の遺した写真や、過去とも未来ともつかないイメージ、女たちの不思議な生態など、森の謎と女たちを描く映像美。しかし映像美なんて胡散臭いと思っていると案の定、謎が割れると神秘のポテンシャルが尽き、急に環境保護の社会批判となって底が見えてくる(そういうことなら何故そもそも女性しかおらず、父親が運動を息子に隠す必要があるのか)。やはり映像美など映画にとってただの逃避だ。
冒頭に福井の観光CMが流れ、新幹線がトンネルに入って過去=映画本篇となる。狙いが分かりやすくて結構だ。福井でメガネ産業が盛んになった理由を描く地場産業振興物語。詰まる所インバウンドでメガネの福井の観光宣伝。にしても「新しいことに挑戦、苦難を経て成功へ物語」のモデルが大抵明治という明治信仰は何とかならないのか。決して破綻に至らない程度の葛藤をほどよくまぶし、見た後に多幸感以外何も残さない安逸な世界。ロケに使える古い建物が残っているのには感心した。