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R・クーグラーの「フルートベール駅で」が黒人青年の最後の1日を描いたのに対し、こちらは射殺までの1時間余りをほぼリアルタイムで。冒頭からずっとクライマックスみたいな演出なのはところどころ引き算が必要だと思うし、ラストショットのあとに現実の音声を長々と流すのは冗長だろう。それでもこの冗長さを選択せずにいられなかった怒りが作り手にはある。こうした映画の基になる実話はいつなくなるのか。悪条件が重なり、善意は届かず、事態がこじれていくさまがやりきれない。
姉弟が憎み合っているだけの話をすらすら一気に見せてしまうあたり、やはりデプレシャンの強みは語りの巧さにあるのだなと思う。不和の原因の解明と、ふたりの和解とを観客は当然期待するが、M・コティヤールに鼻血を出させ、M・プポーに空を飛ばせるデプレシャンが、それだけでハッピーエンドとするはずはないのだった。憎しみを手放さないかぎり人は憎悪の対象に縛られたままであり、自分の人生を生きられないのだということを、唐突に見える結末があらためてわたしたちに教える。
ユーモアはあるけど思ったより本格的な動物パニック物。子役、特に女の子の目の強さがとてもいいので、最初子どもたちの大冒険を期待したが、ドラマ的な見ごたえがいちばんあるのは若手ギャングたちのパート。でも(ギャングも疑似家庭だと考えれば、大人と子どもふたり、のグループ三つが集合する)クライマックスでは、やはり「子ども」がカギとなるのだった。これがレイ・リオッタの遺作だとしたら役柄がちと悲しいなと思ったが、公開待ちの作品がまだあるらしく、ちょっと安心。
モキュメンタリー形式を採用した結果、物語世界が終盤まで完全に断片化されてしまっているのが非常にもどかしいのだが、クライマックスの子どもミュージカルの素晴らしさで全部帳消しになるという、ある意味「ずるい」構成。何といってもノア・ガルヴィンの歌と踊りが見られるのがありがたすぎる。彼はベン・プラットらとともにこの映画の製作の核。映画版「ディア・エヴァン・ハンセン」の主演だったベンが、パートナーであり、自身と同じく舞台でエヴァン役だったノアに、今回は花を持たせたという恰好。
NYで無実の黒人老人が白人警官に自宅に押し入られ、射殺されるまでの実話を90分間のリアルタイム進行ドラマで再現。双極性障害(躁うつ病)を患い、警官隊を部屋に入れまいとパニックになる老人と、マッチョなプライドゆえなんとしても部屋に突入したい警官たちの緊迫感溢れる描写が見事。周囲の住民、老人の家族、老人と警官隊との板挟みになる倫理的な新入り警官といった配役も効果的。アメリカのダークサイドをこれほどスリリングな映画に仕上げるのもアメリカの底力。
長年憎み合う姉と弟を軸にしたテンション激しいファミリー・ドラマ。姉をマリオン・コティヤール、弟をメルヴィル・プポーという魅力的なキャストを配し、アルノー・デプレシャン監督はこの姉弟関係をフランス的躁鬱劇場のように描く。過剰なまでの情緒不安定な人物造形を「これぞフランス映画」と褒めるか、疲労感を感じるかで評価が分かれるだろう。姉弟の憎悪の理由が希薄なため、物語が魅力的にドライブしない。キャストの力に依存しがちなフランス映画の悪い癖が出ている。
このタイトルを聞いただけで想像して笑ったとおりのことが全部起きるパニック・コメディ。コカインを大量に食べてしまった熊が凶暴化して、麻薬マフィアも警官も子どもも容赦なく襲う。これぞB級(Z級?)映画という設定を、監督のエリザベス・バンクスや昨年急逝したレイ・リオッタをはじめとするキャストがノッて作っているのがよく伝わる。85年の設定で、80年代スピルバーグ映画へのオマージュもふんだん。音楽が元DEVOのマーク・マザーズボウというのも気が利いている。
NY郊外の子どもたちの演劇サマーキャンプを舞台にしたドタバタ・コメディは、子役から大人の俳優まで実に芸達者揃いで米ショウビズの底力を感じる。中でも主演で歌も披露し監督も務めるモリー・ゴードンの才能が煌めく。子どもたちによる新作ミュージカルの上演で感動的なクライマックスを迎えるのだが、登場人物が抱えるすべての問題がこの上演一発で解決するのは、あまりにもアメリカ的能天気さではと。舞台ならいざしらず、映画にはもっとリアリズムが必要だろう。
人を守るためのシステムが発端で、その人の命が奪われてしまった事実に言葉を失う。令状もないし相当の理由もないから警官を家に入れない、ただ静かに寝たいだけなんだと懇願する老人。一方、彼に対して不信感を募らせ、狂騒状態に突入していく警官。扉の内と外の攻防がただただ虚しい。断絶の扉を無理やりこじ開けても根本的な解決にはならない。警官らしさとは、正義とは、手続きとは。この事件の真の問題は何なのか、我々ひとりひとりが対峙せずにはいられない。
舞台女優の姉と詩人の弟。創作の世界に生きる子ども大人な二人がいがみ合い、憎しみから解き放たれるまでが描かれる。ベルイマン風カメラ目線、ピーターパンのごとく空を飛ぶ姿、舞台上の雪降らしなど、フィクショナルな美しいショットで満ちているのに、ときめきが持続しないのはあらゆる事象がぶつ切りだからか。デプレシャンは感情そのものを人間の手には負えない生き物のように扱い、可視化しようとしているのかもしれない。コティヤールの深い瞳とプポーの皺の説得力に尽きる。
コカイン中毒になってしまった熊が主人公だなんて発想がいかれてる。クセが強い登場人物が次から次へと森に入り、騒動を繰り広げ、熊に負ける者もいれば逃げ切れる者もいる。熊を通してキャラクターの関係性が変化していく様が可笑しい。ストーリーはあってないようなもので、どちらかというと長いコントに近い。あまりに残忍で目を覆いたくなるような描写が絶え間なく襲いかかってくるのでぐったりと疲弊してしまったが、スプラッターやグロい映画が好きな人にはおすすめ。
登場人物の地が透けて見えるモキュメンタリーが大好物なのだが、また一つお気に入りが増えた。ミュージカルの上映に向けてひたむきに練習する子どもたちを前に、思惑まみれの大人たちが現実と向き合い、もがく姿がまぶしい。作り手のミュージカルを愛する純粋な思いもキャスト同士の信頼関係も深く伝わってきた。ただそこにあるものを信じるというシンプルな行為の尊さよ。なんでもかんでもデジタルで効率化を求められるこの時代に、泥臭くて手触り感のある本作は一際輝いている。