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「そう言っておけばよし」として発せられる言葉に、恋人のために発する言葉、そして「言ったからには、その通りに」といった言葉……ある感情が分からない、という素直な兄弟4人を主人公に(皆、その自覚はなさそうだ)、今にも粉々になりそうな言葉の表面を我々に浴びさせ、触れさせ、その危うさ面白さを突きつける。りっぱな考えのはずなのに、借り物のような言葉のやりとりが次々に流れ込んでくるのを受け止めるのには、体力がいるものだ。長女、火水子がこぼす一言が象徴的。
始まり、銭湯を舞台にしたなんのドラマかと呑気に想像するも(原作は未読)、すぐに本作は、暗い死のイメージがつきまとうミステリーであることに気づかされる。過去の特定の瞬間、場所に呼び戻されるヒロイン、などというとデュラスの世界だが、ローグの名作「赤い影」なども想起しつつ、死の国からの探偵のようなリリー・フランキーにペースを摑まれて…。そして、分かり合うことのできない夫婦/男と女の、もはや不毛となってしまったやりとりはやはりホラーだった。
1988年の銀座が舞台とテロップに出るが、映るのはキャバレーやクラブと店内ばかり、ほんの少しの路地裏にネオンと、時代設定を曖昧にする舞台……だが登場する「イメージされる、昭和にいそうなおじさん」たちとせりふにちょっぴり失笑&戸惑い。「あの曲だけは弾いてはいけない」の文句と、池松壮亮がひとり二役のピアニスト、との事前情報をいれて見たのだが、なんと“そういうこと”ではないのにびっくりしてしまった!僭越ながら、SFに振り切った脚色でもう一度見たい。
アイナ・ジ・エンド演じる、歌うときにしか声を発することができない女性、キリエの過去が徐々に明かされてくごとに、目の前にいる女は一体誰なのか、実体はあるのか、いや、何の目的でここにいるのかと動揺するほど、彼女は揺らめく炎のような、霊媒的な魅力を放つ。長い長い物語の中で、二人の姿だけ見ていればいい!と思わせる、自分で自分の名前を新しく付けた女の子たちの素晴らしさには涙が出てくる。広瀬すずが圧巻だ。終盤、彼女の再登場により映画は別次元へと跳躍する。
個々のエピソードはそれぞれの監督の個性を浮き彫りにしていて見ごたえがあるし、菊池成孔の音楽がエピソードごとに変幻自在ぶりを披露するのも楽しい。しかし、4つのエピソードを兄弟姉妹の物語とする必要があったのかどうか疑問だ。4人それぞれになんらかの感情が欠けているという以外に全体を貫くものは特にない。長女のエピソードなどは、石井岳龍監督ならではの型破りな展開となるのだから、タイトルそのままにalmost peopleの物語としてまとめたほうがよかったのではないか。
亡父から受け継いだ銭湯を切り盛りするかなえ(真木よう子)の日常を描きつつ、住み込みの従業員としてやってくる謎めいた男の堀(井浦新)とかなりエキセントリックな探偵の山崎(リリー・フランキー)がそこにからんでくる展開をなにげなく組み込んでしまうあたりには、今泉力哉監督の手腕が遺憾なく発揮されている。しかし、後半になって、自身も忘れていた過去の出来事にかなえが向き合う段になっても、タイトルにもある「アンダーカレント」の深みが感じられないのが残念だ。
映画はビルの谷間の薄汚い路地を移動撮影でとらえたショットから始まるが、これがいかにも富永昌敬監督らしい。この路地に転落することで、主人公の南博は変身するわけだが、それ以前に、銀座のある一夜、彼はジャズピアニスト志望の博と高級クラブで半ば自堕落にピアノを弾く南に分裂するのであり、それもまた博から南への変身を歪んだ時間のなかに描いたものだ。映画ならではの時空を操る魔術とジャズの即興演奏が「ノンシャラント」(無頓着、投げやり)に結びついた快(怪)作。
ほぼ3時間におよぶ上映時間を苦にさせない作品だ。ただ、それは映画の力のなせるわざではなく、むしろ歌のなせるわざと言えるだろう。路上ライブのシーンでのアイナ・ジ・エンドのパフォーマンスは圧倒的だ。だからこそ、それ以外のシーンではむやみに音楽を流すのを控えるべきではないか。脇役も含めて、豪華で多彩な俳優陣はそれぞれ力のこもった演技を繰り広げているし、東京、帯広、大阪、石巻と展開していく物語も興味深い。ことさらに音楽で感情を煽る必要などないはずだ。
それぞれに何らかの感情を欠いた四人兄弟姉妹という設定がそもそも抽象的なので、リアルに寄せる三篇が嘘くさく見える。その抽象性を逆手にとって寓話にした石井篇が唯一関心の持てる一篇だった。リアル傾向の三篇を肯定的に捉えようと思っても、感情がないとどうなのかを探ろうとする一種の実験だとするなら何らの展開も帰結もなく物足りないし、現代はみんな何かしら欠如を抱えているということの比喩であるとしたら当たり前すぎて胡乱。何にせよ本作の意義が見えない。
水死した友人の代わりに水に沈む夢を見続ける女、嘘をついているうち「本当」が分からなくなる男、「人を分かる」とは、自分こそが他者であると認識することだろうが、その機微が日常的な説話の中に自然に溶け込んでいる。それぞれの心の底流が明らかになってゆき、解きほぐされてゆくだけの持続として二時間半があり、その必然性ゆえに見ている時間が充実している。銭湯なので水や火といった根源的物質が身近にありながら、いかにも象徴的に使うことのない抑制も素晴らしい。
キャバレーという場で音楽を磨くために銀座に来た男と、そこで職業ピアニストをしているうち初心を忘れた男。同じ一晩の話にしているためこの二人が分身として描かれるが、同一人物の過去と現在にしない理由がよく分からない。時間軸を捻じれさせているから、時空間の不明瞭な「ビルの隙間」の場面がありうるわけだが、こんな異次元を設定しなければ主人公の変化が描けないわけでもあるまい。主題に正面から向き合うことを避け、奇を衒って深遠に見せているだけではないのか。
アイナ・ジ・エンドの歌の力は確かに超弩級といってよいが、それを支える説話構造がこれではさすがに可哀そうというものだ。「妹」だから無垢であり、トラウマだから声は出ないが歌は天才的だなどという想像力の通俗性に辟易する。それを誰もが無条件で肯定すると思うなよと言いたい。かてて加えて、「妹」を兄から引き離す児相、「妹」の「心の歌」を妨害する警察を悪役に仕立てて、官僚主義に抗する彼らの純粋さを担保しようとするあざとさ。なるほどいかにも岩井映画の感。