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砲撃の音が止まない。ずっと「ドン! ドン!」と嫌な音がする。住人たちは、いつものことよとタバコを吸い冗談を言う。破壊された家の発電機を運び出す。片方の車輪がないから探せと言う。彼らの前には無残な死体が二つ。火をおこしでかい鍋でボルシチを作る。なかなか火がつかない。油を染み込ませた布を突っ込む。ようやく火がついて笑い合う人たち。ただ目の前に起こることを記録しようとする監督の客観的な視線。小さな喜びに一喜一憂する彼らの顔が頭に焼き付いて離れない。
不眠症気味の彼女は、朝方までマンションの窓から街を眺める。何かとうまくいかない。失敗しては泣いてばかりいる。ホームレスの女の子と息子が橋で話すシーンがいい。橋から落っこちてびしょびしょの二人。火に当たりながらぎこちないキスを交わす。女の人も図書館で会った誠実そうな男と恋に落ちる。男とのセックス。胸に手術の跡。「気になる?」。彼女にもいろいろあったんだとわかる。家族三人で踊り始め「あなたも入って」とホームレスの女の子も一緒に踊るところが良かった。
恩師である小学校の先生が、今か今かと待っている。取材班はプーチンが来ることをサプライズで仕掛けるが、先にSPが来てバレてしまう。エリツィンが当選したプーチンにお祝いの電話をかける。折り返すと言われて待つが全然かかってこない。笑ってしまう。監督はずっとカメラを回している。もう撮らないと言いながら一向にやめない。娘が風呂に入っているところも延々撮る。奥さんにブチ切れられてもカメラを止めない。そのしつこさがプーチンの怖いところをあぶり出している。
キリストみたいな男が横たわっている。「起き上がってなんとかしろ」と文句を言われる。「体中が痛くて起き上がれない」と情けなく答える。どうやらここは地獄みたいな場所で、天国の扉が開くのを待っているらしい。扉がちょっと開いては「ダメだ」と拒否される。描写は珍妙。昔ドリフの漫画で、顔だけ写真で体が漫画っていうのがあったけど、それを思い出した。何か新しいことをやってやろうという実験精神に溢れている。ずっと夢を見ているような奇妙な感覚に襲われる。
人々の暮らし、日々の生活には絶え間なく轟音が響いている。まるで人が誰もいないかのような世界で、ひっそりと生き続ける人々。日本では未公開とのことだが、前作もマリウポリで取材していたという監督。本作を撮影していなければ殺害という最悪な結果にならずに済んだのかもしれない。見ているのがとても辛いが、これが昔話ではなく同時進行形の今であるということを受け止めたい。文字や一瞬のニュース映像からは絶対に伝わってこない映像の力というものをひしひしと感じる。
ミカエル・アース監督の息遣いというものがやはり本作からも伝わってくる。柔らかく、ときに脆く繊細で、それゆえに小さな強さが煌めくようなそんな映画を彼は撮る。見終わった後は少しだけ胸が痛む。個人的にとても大切な「サマーフィーリング」、評判の高かった「アマンダと僕」に続き確実に作家性が強く、新作を見たい監督の一人だ。主演のシャルロット・ゲンスブールがとてもよかった。エマニュエル・ベアールが出演していることも個人的にはすごくツボで嬉しくなった。
監督自身の幼い娘の入浴シーンが本作の比較的最初のほうにある。その映像を使用していることに少々混乱し、引っかかってそのままうまく咀嚼できないままになってしまったきらいがある。ロシアという巨大な国家を我がものにしたプーチンが、いかにしてそうなってしまったのか、そしてなぜ戦争を始めてしまったのか、その本質を若い日の彼の言動から探そうとしてしまう。プーチンを任命した直後のエリツィンと家族たちの様子も興味深い。公開できたということ自体が驚きでもある。
これは悪夢そのものである。霧に霞んで先がよく見えない様も、半透明になった顔のわからない人々が押し寄せてくる様も、止まらない汚い言葉の羅列も、よく見る悪夢の光景によく似たシーンがいくつも登場しぞっとした。アーカイヴ映像を駆使して悪夢へと変えたその手法が一体どのようなものだったのか、編集方法が非常に気になる。独裁者たちは再び蘇り、死ねない身体は彷徨いながら、自分たち自身の言葉を引用していく。映像もすごいが音もすごかった。ソクーロフ、天才すぎる。
製作経緯を抜きに見ることができず、やはり困惑する。撮影に同行し、作品を完成させた助監督によれば、マンタス・クヴェダラヴィチウスは戦禍を伝えるような遺体の撮影を拒み、戦時にあっても笑いとともに営まれる日常生活を撮ると主張したという。そういう監督の趣旨は、この映画に映される人々の様子に記録されている。しかし、結果として、私たちがこの映画に見るのはなにより撮影者の死である。「彼は死んだ」という事実。カメラの背後の現前と不在をどう見ればいいのか。
「若くて子供みたい」と形容されるタルラの声に「満月の夜」の引用。パスカル・オジエの声のこだまに気付き、涙した。ただ、作劇の基盤に死を据えてきたミカエル・アースが今回はP・オジエの死に依拠したわけで、疑問は残る。マチアスは3年ぶりにタルラと会い、「北の橋」を一緒に見にいく。しかし、彼はその後に龍の滑り台を目にしても、対岸から一瞥するだけで何の気なしに通り過ぎてしまう。女優の死はそういう目配せの対象にすぎない。あたかもそんな具合の切り返しである。
冒頭のホームビデオがこの映画の換喩だとするなら、監督の認識には大きな誤りがあるのではないか。監督は撮影をいやがる妻や娘にカメラを向け続ける。再三の拒否にもかまわず、入浴中の娘の裸を映す。たぶんプーチンにも同じことをしているつもりなのだ。大統領の活動を間近から追い、官邸や公用車の中で語る私的な姿に迫る。とはいえ、それもまた権力の手のひらの上で踊らされているにすぎない。自分の家族に向けた暴力を大統領には行使できない。むしろその点が露呈している。
原題は「フェアリーテイル」、つまりおとぎ話だと思ってみると、作品の輪郭がよりくっきりと浮かび上がる。本来「歴史」の構築を担うはずのアーカイヴ映像と記録文書を組み合わせることで、歴史の対概念に達するわけだ。「資料のモンタージュ」によるおとぎ話。また、ソクーロフがデジタル技術の活用を「モンタージュ」概念の拡張に生かすとすれば、本作はいわゆる権力4部作より「精神の声」第1話(95)や「エルミタージュ幻想」(02)と比される。群衆は不定形の亡霊となる。