パスワードを忘れた方はこちら
※各情報を公開しているユーザーの方のみ検索可能です。
メールアドレスをご入力ください。 入力されたメールアドレス宛にパスワードの再設定のお知らせメールが送信されます。
パスワードを再設定いただくためのお知らせメールをお送りしております。
メールをご覧いただきましてパスワードの再設定を行ってください。 本設定は72時間以内にお願い致します。
戻る
公開年:
現在の文字数:0文字
氏名(任意)
話を知らずに見るほうがいい。余計なことは書かない。しかし参考図書として蓮實重彥『帝国の陰謀』を挙げておく。印刷技術の発展のおかげで、出版メディアが突然活気を帯びたフランス史のある時代をまさに「画面」で見せ、楽しませてくれる逸品。原作は群像劇だが、映画のポイントは才能ある三人の作家志望者。挫折し記者になった者。やがて小説家としてこの物語を世に出す者(ナレーション担当)。主人公はどっちつかず。彼が筆名にこだわらなかったらどうなったのか、と考えてしまう。
最終解決篇なので観客を飽きさせることはない。この機会にシリーズ全部見ようね、という魂胆です。ラストで矢つぎ早に出現する過去作品の映像は楽しいものの、星が伸びないのは怖さのポイントがばらばらなせいだ。モンスターよりも人間のほうが邪悪、という話なのだが、モンスターと化す若者に同情しちゃうしかない展開はどうなんでしょう。それとジェイミー・リー・カーティスが偉くなり過ぎた。自伝なんて執筆してないで、孫娘の恋の行方をもっと心配するほうが人として正しいぞ。
東欧の戦場が舞台。冒頭では時代も場所も分からないのが効く。しかし総括すると、いかにも才気煥発な若者が頭でこしらえたみたいな印象が強い。キャラを作りこんで、それを動かすという感覚だが、人物造形が操り人形みたいになっている。カタストロフもカタルシスもあり、褒めやすい。褒める人もいるだろうが予想を超える瞬間がなく、予定調和的な説話構成なので感動は薄い。ただ最後に生き残る人が意外である。多国籍キャストのため英語劇にしたのも悪いほうに働いた。
大型船舶が立てる荒波のせいでヴェネチアの水路の外壁の腐食が進む、という説は確かにある。住民が敏感なのも根拠はあるのだ。おまけにコロナ禍あり水害あり。観光地も大変。だが「沈みゆく街」という外観をこの映画は画面では見せていない。人工的にそのルックスを作るには予算が足りなかったのだろう。どこかハンパな印象。登場するスペイン人も狂騒的過ぎてこちらが引いてしまう。自業自得でしょ。クライマックス、廃墟となった劇場での惨劇が楽しいので壊滅的な星にはならなかったが。
まったく時代は異なりながらもバルザック流の聖と俗が入り混じる、きわめてアクチュアリティのある作品に仕上がっている。グザヴィエ・ドランは登場人物であると同時に語り手でもあり、彼の目線を通して物語が進行してゆく。ドランは映画作家のかたわら俳優としての活動でもゲイ男性の役が大半を占めているが、そうして構築されたスターペルソナが本作のホモエロティックなムードを掻き立てるのに一役買っている。上品でそつがない逸品であるものの、綺麗におさまりすぎた印象も。
他シリーズ作品は未見。おそらくは終盤のほうがよりファンへの目配せがあるのだろうが、プロローグの演出が冴え渡っていて一気に引き込まれた。ジェイミー・リー・カーティスの体を張ったアクションシーンももちろん見応えがあり、真新しい単体のホラー映画としては十分楽しい。ただ、登場人物たちの行動原理がいまいち不可解な描写が多々あり、決着の付け方がこれでいいのかどうかも意見が割れそうなところで、シリーズ最終作(?)の終わり方は難しいものだと改めて感じさせる。
恋愛譚が主軸になったメロドラマを想像していたが、あくまでもそれはひとつのエピソードにすぎず、複雑に絡み合う政治状況と人間模様によって映画はテンポよく進んでゆく。したがって、説明台詞があまりない故に物語はときに難解さを帯びるものの、かと思えば説明的な回想が不意に差し込まれる辺りにはやや作劇にブレを感じる。これだけのドラマが90分台の尺に詰め込まれているのが信じがたく、近年の映画における長尺化の風潮の中にあって、この重厚感と満足感には有り難みを覚える。
終盤のフックで吊られた死体などの残虐描写やヴェネチアの街並み、カーニバルの仮面をつけた排他主義者たちの仮装といった美術をはじめとする視覚的要素は、この映画を一見の価値があるところまで高めているが、特に若者たちが観光でハメを外す姿を描いてゆく導入部分は映画を本格的に楽しむまでの忍耐の時間のよう。この星取りでも最近取り上げたSNSを悪とする「デスNSインフルエンサー監禁事件」然り、作り手側の教訓が透けて見え過ぎてしまう瞬間があるのはどうなのだろう。
文豪バルザックの最高傑作ともいわれる『幻滅』の映画化。バルザックの名の下に集まったであろう著名俳優陣はゴージャスで、制作の技術的にもフランス映画史の豊かさを見せつけるような内容となっている。なかでもC・ボーカルヌによる撮影は実に美しく、フレームの四隅に張り出したビネットが我々の禁じられた欲望を引き出しているようだ。またこうしたフランス文化界隈の貴族的なノリが当時から今日に至るまで数百年間固定されたままだということを再認する良い機会にもなった。
前作が過酷な出来であったためにあまり期待していなかったものの、タイトルまでのシャープなカッティングと階段を上下に使った演出を見ていたら一気に引きこまれた。そこからは、カーペンター版のハロウィンファンとしては笑うしかないようなタッグ・バトルが繰り広げられたり、論理もへったくれもない超展開が連発されるわけだが、「お話やキャラクター造形なんて知ったこっちゃねえよ」と世の脚本至上主義者たちをアクションだけでもってねじ伏せていく潔い姿勢には好感を持った。
どうして戦中のスロバキアを舞台にした低予算映画の登場人物がそれぞれにてんでんバラバラな訛りの英語を話すのかがわからない。そしてその英語を用いた芝居があまりにも酷い。そうした配慮のバランスの悪さは作品全体に広がっている。どれだけ説明的なショットを積み重ねようが構わない。だが、物語の背骨である主人公とヒロインたちの関係性すらまともに演出できていないのはさすがにまずい。これではアングロサクソンによる悲劇の歴史検証風偽善経済活動の誹りを免れないのでは。
あまりにもしょうもない動機にかられて殺人を繰り返す仮面道化師たちは滑稽ですらなく、12歳以上の観客の恐怖対象にはなりえないだろう。しかし、数々のジャーロ映画への愛に溢れた本気のオマージュはなんとも微笑ましく、ホラー・コメディとして、あるいは幻影のような水都ヴェネツィアのロケーションを隅から隅までとらえたツーリズム映画としてなかなか充実した時間を過ごすことができた。そして改めて手持ち撮影のスペイン映画には意外といけているものが多いことも付記したい。