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官僚制の本場(?)英国が黒澤をリメイクしたら基本さらに傲岸かつ陰湿な(これは悪口ではない)映画になった。さすが。主人公を称してミスター・ゾンビというのも上手い。キャラクター全般にオリジナルのような愛嬌はない。しかし、その分、部下の女性と新人で補い、温かさを出す。また〈アローン・トゥゲザー〉や〈黒い瞳〉等の懐メロの使い方に味がある。オリジナルのように理詰めで落ちまで持っていくのではない(せっかくの帽子の使い方が上手くない)が、ここまでやれれば納得だ。
あの娘がどうやってエスターになったか、というお話。ある病気を思いっきり悪意をもって描いており物議を醸すかも。今更それはないか。ともあれ昨今ここまで台詞で「フリーク!」を連発する映画は珍しい。香港映画「殺人鬼」も似た設定を使っていたが、彼女が潜入する一家が実にワケありで、これの方が巧妙だ。名作「テオレマ」とは似て非なるコンセプトとはいえ、作者の意識にはかすっただろう。ジミー・デュランテ歌う〈グローリー・オブ・ラヴ〉が絶妙な効果を上げているのも加点。
名作映画の裏側を監督他、関係者がたっぷり語る。ノーマン・ジュイソンと言えば「夜の大捜査線」で黒人が白人を平手で殴り返す場面が有名。ちゃんとここにも引用され、時代の雰囲気を印象付けている。ジュイソンの盟友ジョン・ウィリアムズの饒舌ぶりも特筆すべき。本ドキュメンタリーの監督は映画美術家ロバート・ボイルの生徒だそうで企画に対する姿勢もスタッフワークの痒い所に手が届く手厚さあり。つくづく「バイオリン弾き」は時代のアイコンだったのだなあと実感させる。
本作監督には舞台設定不明映画の系譜があり、これはその流れ。ブリュッセルらしいが詮索不要といった感じだ。何組のカップルが現れるのか数えていないと分からなくなる。私は途中で諦めた。それでも画面が見事に映画として成立しているので飽きさせない。特に終盤(翌朝)微かな明かりの中に牛乳瓶と若者が並立する画面が秀逸。これは小津安二郎映画にインスパイアされた物と察せられるが、日本映画にはかえってこういう超モダンな発想は見られない。青山真治に見せたら喜んだはず。
書類が積み上げられたデスクが並ぶ室内の圧迫感のあるフレーミングによる画の再現などをはじめオリジナル版である黒澤明の「生きる」に忠実でありつつ、抑制の利いた演出ではありながらも、本作はよりオーセンティックな雰囲気で感情的な仕上がりになっている。主人公の男とマーガレットとの関わり方も本作では現代にあわせて描かれていたように思う。黒澤版ではブランコに乗る主人公を捉えた映像がとりわけ印象深いが、本作でブランコは無人と化しラストショットへと配されている。
子供が一般的には純粋な存在であると見做されていることを逆手にとって天使の皮を被った悪魔を描いてゆくこの映画では、その作品の骨子である二重性を、表面的には親子である近親相姦、表面的には失踪である殺害、表面的には子供である大人など物語の至るところに鏤める。ひとりの男を取り合って女同士が敵対してゆく挿話は古めかしい図式に堕すかもしれないが、25歳の役者によって演じられる9歳の少女の見え方が万華鏡のように変容してゆく様から目が離せず引き込まれてしまう。
ミュージカル曲のリズムに合うように役者が昇降する梯子の段数を調整するという音楽と美術の関係性や画面全体の色調を茶色に見せるためにカメラのレンズにストッキングを被せる撮影方法などが興味を引く。ホロコーストにより欧州では消滅した木造のシナゴーグが資料を基に撮影地に建設され、失われたものへの熱意という意味で「屋根の上のバイオリン弾き」の制作自体がディアスポラ的である。また本作を観る観客も旧ユーゴスラビアという失われた撮影地へ眼差しを向けることになる。
多くの時間が固定カメラによる長回しのショットで映され、定点観察的にさまざまな夜の人間たちが描写されてゆく。遅延した時間のなか主婦の家事労働を描くアケルマンにとっての代表作「ジャンヌ・ディエルマン」や、三部からなる構成的な厳格さを携えた「私、あなた、彼、彼女」などと等しく形式を重んじた作品群に連なる。カロリーヌ・シャンプティエの撮影が美しいことはもはや言うまでもなく、人生の大事なモメントがすべて夜にしか起こらないのではないかという幻夢へと誘う。
リメイクが成功する原作というのは、誰がどう見てもそれなりに良い作品ではなく、語る主体によって評価が真逆になるような作品だ。それは、この原作にはこんな可能性もあったのかという驚きこそが観客を熱狂させるからであって、「やっぱりよかったね」という安全な反応を引き出すため制作するには映画はリスクが高すぎる。本作も俳優は良い。絵も美しい。だが、驚きは何ひとつなく、これでもかとナレーションで泣かせにかかる後半の蛇足に次ぐ蛇足の展開にはさすがに鼻白んだ。
第一作がホラー史に残る大傑作だったためにおのずと期待値は上がる。例の秘密の開示を前提とした続篇はただのモンスターものになりかねず、相当な困難をともなったことが想像される。その結果として本作の中盤以降の残念な展開はあったのだろう。とはいえ、各シーンは丁寧に撮られているので、この規模のホラー映画にありがちなB級感は排され、なぜだか見つづけられるスケール感は獲得している。ファンによる「エスター」の二次創作だと思って見るとちょうどいいのかもしれない。
監督のノーマン・ジュイソンを中心に、映画「屋根の上のバイオリン弾き」の制作にまつわるあれこれに迫るドキュメンタリー。ミュージカルを原作とする本作の映画化にあたり、舞台版のキャストがそのまま出演するというケースがあったようで、その際行われた舞台から映画への演技の「翻訳」の逸話が興味深かった。ただし、映画版が「撮られた舞台」を乗り越えられているかどうかはいささか疑問であり、本作もDVD特典についているメイキング映像を超えるような何かが欲しかった。
暗い。とにかく暗い。モニター鑑賞に適さないこの圧倒的な画面の暗さは、映画とは暗闇の中で目をこらすことではないのかというアケルマンの問いかけにも思える。のちにペドロ・コスタなどに受け継がれるであろう、闇の中でうごめく人々の一瞬のきらめきをワンシーン・ワンカットでとらえ積み上げていくことで観客の心に真っ黒な建造物を築き上げていくスタイルは本作でも冴えわたっており、運転中のカップルをとらえた前半のショットなどは思わず映画の勝利を叫びたくなる。