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何を隠そう「パンケーキを毒見する」を断った監督の一人は僕だ。ビビったワケではもちろんなく、映画として面白くなるはずがないと思ったからだ。完成した作品は面白くなるように懸命に努力していた。しかしそれが面白いか、また映画になっているかは別問題。映画はいつからテレビでやれないことをやるカウンター・メディアになってしまったのか。安倍晋三は本当にクソだ。死んだからといって、その罪が消えることはない。安倍が生んだモノ、安倍的なモノはこの国で続いている。→
自分の中のズルさや臆病さにはいくつになっても慣れない。そういう意味では、この映画で描かれる事象は普遍なのだろう。だからなのか、大人が書いた借り物競走感がどうしても拭えない。相米オマージュの長回し。しかし本当に撮るべきは「台風クラブ」や「夏の庭」のような、本物に見える子供っぽさではなかったか。母の乳癌やヤクザ親父や宗教ママを入れながらも、ドラマに見せないドラマ作りは見事。だが何かが足りない。可もなく不可もない作品は難しい。他の人の評価が聞きたい。
バンドの再結成モノ。元メンバーを集めようとするが、酒に溺れる北村有起哉が難関。結局、復活ライブを前に北村は自殺するが、なぜかは分からない。見えないものが見える、わからないことがわかるのは辛いと語られるがオカルト過ぎて。そこをちゃんとやらないと再結成までの時間も意味も何も見えない。役者が魅力的なゆえに描かれていない内面が見え隠れするが、過剰に戯画化されたキャラが邪魔をする。語り口は懐かしいが、これでは音楽に遠く及ばない。ノット・サティスファイド。
→「妖怪の孫」はそのことをちゃんとやっている。しかしやはりこれは映画ではない。せめていっぱい宣伝して、届かない人に届くことを願うのみ。届く人は安倍が最低最悪だと知ってるから、自己確認にしかならないし。「放送不可能。」に至っては偽りあり。この程度のこと、テレビでやれないのか。人選も電波芸者と言われた田原に劇場化の小泉だし。第2弾はホリエモン? なんとかならんか。原発反対以外、内容もないし。テレビマンユニオン、創始者に恥ずかしくないか。YouTubeで十分。
出色なのは安倍晋三政権のメディア戦略への斬り込み。安倍は第一次政権の失敗の反省に立って、メディアをコントロール。SNSや動画配信も活用し、若者層の取り込みを図る。まさにポピュリズムの手法で、選挙に勝ち続けた。その異様な周到さを丹念に追うことで、既存メディアの凋落も浮き彫りにする。ただ映画全体としては総花的で、結論を急いでいるのがもったいない。地元下関での利権、両親への反発と祖父への心酔は、それぞれに1本のドキュメンタリーを編める話だ。
時に傷つきやすく、時に残酷な11〜12歳の子供たちの複雑な心理がリアルに描かれている。今でいうハブる(仲間外れにする)とか、ハブられる、という関係は40年前も今もそう変わらない。さらに言えば、子供の社会も大人の社会もたいして変わらない。違うのはそれがどういう具体的な行動として表面化するか。カツアゲを拒んで中学生に呼び出された主人公の意を決した行動を、相米慎二ばりの長回しのカメラでとらえるショットに、足立紳のやむにやまれぬ思いが充満している。
亜無亜危異のギタリストが自分たちのバンドをモチーフに撮ったフィクションだから、現実と違うところも、重なるところもあるだろう。献辞の通り、核にあるのは再結成を前に50代で急逝したメンバー逸見泰成への思い。ニルヴァーナやセックス・ピストルズが映画になったように、亜無亜危異も映画になると思う。ただそれを当事者が作るのは難しい。ロックは生きざまだから、エンドロールの現実の亜無亜危異のライブがすべてを物語ってしまう。フィクションが拮抗し得るのか。
田原総一朗が小泉純一郎に原発推進から反原発に転じた理由を聞く。インタビュー番組としては実にわかりやすくできていて説得力もある。話の内容を統計データでいちいち裏付けるところはジャーナリスティックだし、強調したい言葉をテロップでバンバン出すのは昨今のテレビならではの手法だ。だからこれを映画として評するのは不可能に近い。この作品が映画である理由は題名の通り「放送できないから」に尽きる。それが日本のテレビ界の現状だとしたら、頭がくらくらする。
よくも悪くも戦後日本に道筋をつけた祖父に対抗意識を燃やし、それとは一線を画す道を模索した実父に学ばなかった“妖怪の孫”の政治家人生。国家権力の下で自明の理不尽が罷り通ってきたからくりを、顔出し厳禁の官僚や専門家の証言から紐解く。題名に引っ張られすぎのアニメーションパートは効果的とは言い難いが、好戦的な風潮に流れる現状に危機感を募らせる“愛娘の父”として腹を括った監督の覚悟に、長期政権で培われた不穏なイズムの継承を阻止せんと痛感させられる渾身作。
多感な少年期の出逢いと別れの物語も、彼らの前に立ちはだかる謎のトンネルなどの道具立てにも、ジュブナイル映画としての既視感は否めないが、“普通”であることにコンプレックスを抱く主人公が、各々に事情を秘める友人らの家庭を垣間見て、自分がいかに恵まれているかを再確認する過程が、丹念に綴られる。そんなナイーヴな息子の目を見開かせる乳がん闘病中の母親が、臼田あさ美の好演も相まって、足立紳作品の少々露悪的な女性像に連なる、豪快で開けっぴろげな魅力を放つ。
藤沼伸一監督の亡きバンドメンバーへの哀悼の念が、全篇ににじむ。再結成までの30数年間の音楽業界の目まぐるしい変遷のようなものが、背景としてもう少し具体的に描かれていれば、時代も無視して我が道を爆走し続ける永遠のパンク野郎・アニマルをあいだに挿み、厳しい世界をギターの腕一本でたくましく生き抜いてきたイチと、何かと対応できずに堕ちていくハルとの、非情にすれ違う運命の切なさが一層劇的に引き立ち、監督の願いが託されたエンディングも、さらに活きたと思う。
題名いわく、いかに過激な内容かと思いきや、妙に仲良しなふたりが、正論を語り合うだけという皮肉。かつては原発推進派だった元首相が、悪びれずに“嘘をつかれダマされていた”の一点張りで通すのも言い訳じみて聞こえ、田原氏の“安倍政権を生んだのは小泉さんでは?”の指摘で、和気あいあいムードがにわかにピリつく一瞬が、個人的には最もスリリングなハイライトに映った。国民大多数の声さえ虚しく響く今、“原発ゼロ、やればできる”が結論とは、あまりに楽観的ではないか。