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ワンシチュエーションものに興味がない。閉じ込められた場所からの脱出なんて、手法だけの映画になるしかないからだ。でもたまに社会の閉塞状況の暗喩だったりして、やられたと思うこともないではない。しかし本作には見事に何もない。ネタバレ禁止らしいから何も書けないが(批評するなと言ってるのも同じだ)、映画の中でしか存在し得ない人間を見せられても心は動かない。復讐譚だし。これがベルリン? 久々の熊切和嘉、どうせならもう少しマシな転向を。これを経てどうなるか?
窪塚洋介が何をやってもうまくいかない前半戦の密度にいやが上にも期待が高まる。現代の犯罪ってこうやって起こるんだよなという説得力。が、ここからがいただけない。いざ犯罪になったらグダグダもいいところ。計画は杜撰極まりなく、出てくる人皆バカ。というか皆捨てキャラで誰も生きてない。いや、失敗を宿命づけられた犯罪映画でもいいのだ。でもそれだって成功しそうな要素はないと。犯罪話に入るのが遅いし。演出力はあるんだから、シナリオをちゃんと作りなよ。残念な映画の典型。
分からないことが多い。なぜ少年を養子にしたのかも養父が働く自立支援団体もプレスを読まなければ分からない。それでダメな映画も多い。しかし本作は違う。撮っていて使わなかったのか、敢えて撮らなかったのか。とにかく相当に考え抜いて使うもの使わないものが選択されている。だから描いた以上のものが行間から伝わる。これぞ映画だと思う。「赤ちゃんの写真が残ってるっていいですよね」と呟く孤児の少年に泣いた。普通なんてどこにもないのだ。三十歳四十歳の息子が見てみたい。
辛すぎる。観ている僕でさえ辛いのだから、子供を失った親たちの辛さはいかばかりか。だから目を逸らしてはいけないと思う。なぜ誰も責任を取らないんだ、ちゃんと検証して次に繋げればいいだけじゃないか。しかしそれが出来ないのがこの国だ。戦争責任と同じだ。醜い。本当に醜い。違う辛さが襲ってくる。この国で生きていかねばならない辛さ。何もしないのは現状に加担すること。すべての人に観てほしい。しかし覚悟がいる。問われているのは我々自身なのだから。自己批判を込めて。
閉鎖空間、限られた道具の活用、信頼と裏切り、どんでん返し。様々な脱出劇を連想させるサスペンスだが、今日的なのは主人公の頼みの綱がスマホであること。電話、GPS、カメラ、SNS。それらは脱出のためのツールであると同時に、姿を見せない犯人が仕掛けたトラップでもある。穴という伝統的でリアルな枷と、ネット空間という現代的な仮想現実の罠。結末までスリルが途切れない。岡田道尚の精緻な脚本を熊切和嘉が映像化。撮影の月永雄太、美術の安宅紀史も力量を発揮。
犯罪サスペンスなのだが、3人のタクシー運転手による名画詐取計画が動き出すのは映画の中盤から。前半は運転手たちの転落の道のりと荒んだ生活ぶりを丁寧にゆっくりと見せていく。後半はテンポが一転。電光石火で犯罪計画が立てられ、猛スピードで実行へと走りだす。簡単に騙される政商の脇の甘さなど、現実離れしたところは多々あるものの、一気呵成に見せて、まさかの結末へと向かう。この転調が果たして効果的なのかどうかは疑問だが、人物一人ひとりはよく描けている。
字幕もナレーションもないダイレクトシネマである。勇気と渉が養子縁組を決意した理由はつまびらかにされない。ただ新しい生活を始めた二人のそれぞれの希望と苛立ちは確かに映っている。それぞれにマイノリティであることを自覚しながら、のっぺりとした社会と向き合い、その息苦しさを鋭敏に感じ取りつつ、前に進む。意外な結末が唐突に訪れるが、島田隆一監督はわかりやすい理由で説明することから慎重に距離を置く。だからこそ滲む二人の人生の苦みにリアリティがある。
校庭に待機させられて退避の機会を逃し津波にのまれた児童の遺族が市と県を提訴した裁判を追うドキュメンタリー。裁判記録だけでなく、行政の不作為や隠蔽体質と闘った人々の行動の記録を映像の形で残す意義を痛感した。市や学校による説明会、文科省主導の事故検証委でのやり取りは見るだけでも辛いが、忍耐強く凝視し、裁判になってからの立証のための努力やバッシングもありのままにとらえる。国家賠償訴訟に勝った原告遺族の胸中の複雑さに寺田和弘監督は焦点を置く。
公私ともに幸せ絶頂の好青年風の営業マンが、極限状態へと追いつめられ、化けの皮が次々とはがれていく展開は想定内だが、終盤近くにもなって、ここまで大きな仕掛けを施すと、主人公がなぜ自分の居場所を特定できずにいたのか疑問が残るし、あれこれ推理をめぐらせてきた観客に対しても、裏切りに近い禁じ手ではないか。もう少し時間配分を考えて前倒しできていれば、ジャンルが途中で一変するユニークな作品になり得たかもしれないが、端折り気味に風呂敷を畳み損ねた印象も。
標的にされる強欲な国会議員をはじめ、危機管理意識の甘すぎる人物ばかり登場するため、いかに犯罪計画が時間に正確で緻密に練られたものであるかを、少々細かすぎるカット割りで強調されても、それが予期せず狂っていく衝撃やスリルのようなものに直結していない。はまり役の三者それぞれの事情はなかなかに興味がそそられるものゆえ、無国籍感が新鮮な神戸のロケーションをバックに、奇妙な運命のめぐり合わせで出逢った個性派トリオ内の物語をこそ、もっと観てみたかった。
劇中で、率直な質問を渉氏に投げかけ続ける女性が登場するが、撮入前の制作陣の取材内容の一部くらいは、観る者にも共有させるべきではないか。ふたりが出逢い、親交を深めて信頼を築き合い、養子縁組まで結ぶに到ったかの経緯がほぼ明らかにされないので、“親子”として暮らし始めた1年間のみを見せられても、正直とまどう。我が子を丸ごと尊重する網谷氏のご両親がすこぶる魅力的なだけに、これまでにない“家族”の関係が育まれるさまに、重点を置いてみてもよかったのでは。
保護者説明会や第三者検証委員会が回を重ねるにつれ、責任の所在が曖昧になり、天災が人災に転じる皮肉な過程が、淡々かつ克明に映される。仙台高裁判決文の“組織的”過失なる表現が、遺族の方々を裁判に訴えるしかない苦渋の選択に駆り立てた、同調圧力に弱い日本の国民性の本質をも言い当てる。闘病中ながらも自ら検証資料となるべく山を駆ける亡き児童の父君ほか、原告団の懸命な尽力を通し、故人の無念が今後の災害対策の中で実を結ぶ瞬間に立ち会える、涙なしには観られぬ労作。