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収容所へ運ばれる途中、全員トラックから降ろされ並べられる。パンパンと乾いた銃声。バタバタ人が死んでいく。無残極まりない。男は殺される寸前わざと前に倒れる。咄嗟に嘘をつく。ペルシャ語など喋れないのにペルシャ人だと言い張る。その嘘がいつバレるか、そこがサスペンスになっていく。いくつもの偶然に助けられながら男は、窮地をなんとか逃れる。言っちゃえばそれだけの話。男のキャラクターがよくわからない。どこかでわかるのかと思ったら最後まで謎だった。
真面目そうな男が何度も「ハゲの男に取り憑かれて」と言うのが面白かった。取り憑かれてキャラクターが変わって、ものすごくシャキシャキしたキツめの男になるのが変。傷口に手を突っ込んで血の塊を取り出す。汚いナイフを目に突き刺す。次々と病名を言い当てる。結局世間から批判を浴びて牢屋にぶち込まれる。ここでも病気を治してヒーローになる。敵対する人たちが男のことを認めていくのがグッとくるところ。素直にこういう人がいたと悪意なく描いているのが良かった。
小さな町の話。主人公の女の人はどことなく不機嫌。何かあったんだろうなと予感する。娘は匂いに敏感。何の匂いかすぐ言い当てる。設定だけで期待が膨らむ。片目の潰れた女が紫色の唇で「シャーッ!」と叫ぶ。おもろそう。夫の妹がやってきてから話が動き出す。謎の妹。意味深な言葉の数々。娘が突然タイムスリップする。理由はよく分からない。そのせいで過去の出来事が徐々に明らかになっていく。キッチンで蛸をバチンバチン叩きつけて料理する二人の芝居が妙にエロい。
フー・ディンイーというおっさんが終始穏やかで好感が持てる。おっさんの生き様を追いながら台湾の映画史も知っていく面白さがある。仕事場は物が溢れてゴミ屋敷のようだ。このゴミを巧みに操りながら音を作っていく様子が、もう職人!って感じでワクワクする。教えるのがヘタと息子にも言われてしまうほど不器用。時代の流れでだんだん仕事が減っていく哀愁がある。途中出てきた映画評論家の家がめちゃくちゃゴミ屋敷で驚いた。彼のゴミはきっと仕事とは関係ないと思う。
ナチスの捕虜下で生き残るために架空のペルシャ語を話すという設定自体は新しく興味惹かれるが、ホロコーストを題材にした映画としては、これといった目新しさは感じられない気がして少し残念ではある。嘘が見破られるかどうか、生きるか死ぬかという物語なので当然といえば当然だが、最初から最後まで緊張感あふれるシーンが続く。少々真面目すぎるような気もするものの、映像も美しく、主人公がどうなっていくのかラストシーンにいたるまで始終、興味深く引き込まれた。
心霊手術師の物語だと知り、オカルト的な趣の映画かと思いきや全くそうではない。あくまでも、ホセ・アリゴーという人物に焦点を当て、彼が病に悩む人々にもたらした奇跡が生み出す感動的なストーリーラインや音楽でつくりあげられる。心霊手術のトリックはすでに明かされているものの、信仰の力によって人々が回復したり、声が聞こえて導かれたようなことは、本当にあったのだろう、と本作を見ていると信じたくもなる。騙されているような、いないような、不思議な気分が残る。
語られない多くのこと。見えないことで想像させる手法は、バランスこそが命である。そして本作におけるそのバランスは絶妙で素晴らしい。匂いを集める少女。少女が昔から見える叔母。過去に秘密を抱えた母という3人の女と、女同士で二人の子を作るために利用された(かもしれない)ひとりの男。残酷さが浮かび上がると途端に興味深い。香りを集めるという設定自体がとてもフェティッシュで官能的でもある。何度も観て謎を紐解いていきたい。アデル・エグザルコプロスの魅力が全開。
音が素晴らしい映画はそれだけで十分にいい映画だと思う。映画の音が生まれる瞬間を垣間見ることのできる喜びと興奮に満ち溢れた快作。フォーリーアーティストは職人であると同時に芸術家でもあるのだ。現場で録音された音ではなく、全く別の音を組み合わせてより一層リアルな音を作りあげていく。嘘の方がずっとリアルであるという面白さ。音を作るために道具を探しに行く様子や、継承の問題、歴史的な説明もなされて見応えがある。これぞ映画館で体感すべき映画だ。
私は収容所映画のエンタメ化にはいまだに抵抗がある。強制収容所が作劇の効果を得るための舞台として利用される場合はなおさらである。大尉がペルシャ人になりすますレザことジルに寄せる特別な感情は恋とは名指されることのない恋にほかならず、2人にしか通じないでっちあげの「ペルシャ語」でやりとりをする大尉とジルは、恋人たちが他人には通じない言葉で会話することの謂いのつもりなのだろう。最後に自信満々で見せられるエピローグにしても、巧みであればあるだけ品がない。
何者かに憑依されて半狂乱となったホセ・アリゴーは、子宮ガンだという女性の股間をまさぐる。そして血みどろになりながら肉塊を取り出し、病を治してしまう。奇跡だ。そんな冒頭の場面で、後は推して知るべしと悟ったが、実際その後の展開も予想に違わぬ駄作ぶり。車とミシンを車輪を媒介にクロスカッティングさせるという山場にも呆れたが、さらには止まったミシンのスポーク越しに妻の不安な表情を捉えるのには失笑を禁じえなかった。真面目なのか、それともふざけているのか。
ヴィッキーがしているのは、精神分析的な意味での「原光景」の探究である。原光景とは自分の存在の起源にある光景、つまり両親の性交のことだが、両親の間に性生活が成立していないとすると、それ以外のものの中に原光景を見出さねばならない。それがヴィッキーが直面する矛盾の最たるものだ。というわけで、ここで映されるのはすべてが性交のメタファーである。匂いを嗅いで失神するのも、ワセリンを体に塗りたくるのも、カラオケのデュエットも、木に火を付けるのも、なにもかも。
なかなか困難な課題に立ち向かったものだ。台湾映画界が誇るフォーリー・アーティストの胡定一。1975年に中影に入社した大ベテランだが、2015年に退職勧告を受ける。本作は彼の功績を称え、当局の無理解に対抗してその重要性を擁護するものなのだが、この職人の仕事の肝心の部分は門外不出にあたり、見せられるものがきわめて限られているのである。彼が何を使って何の効果音を生み出しているか。その創意や感性や妙技の実態は示されることなく、観客の想像に委ねられる。