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売れない役者が退行催眠で30年前 の自分に会う。どうやら人生の後悔 をなぞり、あわよくばやり直したい らしい。しかし現れるのは女ばかり。この男の後悔は女のことだけなのか。父と娘を経て、母との邂逅。母は息 子の売れない役者人生を全肯定する。このままでいいと。これをやりたか ったならば、女ではなく役者として の後悔に焦点を絞るべきはなかった か。このオチには泣いたが、短篇ア イデアを長篇にするまでには至って いない。催眠の終わりも分からない。後悔の芽は脚本で絶つべし。
四季の移ろいと食が丁寧に綴られる。魅力的だが、高齢者の「リトル・フォレスト」だったらイヤだなと頭を掠める。しかし、地続きで死が訪れる。義母が孤独死し、沢田研二も死の淵を彷徨う。退院した沢田は同居すると言う彼女を拒み、孤独を選び、死を書く。その沢田のアップが鬼気迫る。このワンカットのためにこの映画は存在する。流れる時間、風景に独特のリズムがある。文学の言葉が映画の邪魔をしていない。「太陽を盗んだ男」以来の沢田の、「ナビィの恋」以来の中江の、代表作。
劇中の講演で太田昌国が「死刑を肯定する人は、犯罪を犯した人は変われないと思っているから」と言う。だから殺してしまえというわけだ。人は変われるか。人を規定するものは何か。人は属性から自由になれるか。本作はそんな文学的テーマを見事に映画に翻案している。程も品も良い。ただそれ故に伝わらないもどかしさもある。在日三世の弁護士の民族的苦悩を深掘りしないと、あのオチは変われない重さを相対化するだけではないか。「千夜、一夜」と同じじゃないか。気取らずに行こうよ。
シナリオを勉強している人は、こういうことをやってはダメという見本として、この映画を観た方がいい。行動原理の分からぬ登場人物、あるようでない主旋律、全体に寄与しないシーン、すべて台詞による説明、なのに肝心なことが何も書いていない。いつかどこかで観た映画のパッチワーク。思うに任せず、場当たり的にしか生きられない人を描くなら、それ相応の手があるはず。同じ主演、同じストリップ劇場を舞台にした「彼女は夢で踊る」には遠く及ばず。横山雄二、役者としてはいい。
これは映画ではなくて、演劇だと思った。舞台上での芝居をはじめ、客席、舞台袖、ロビーなど劇場内でほとんど完結するこのドラマを、あえてカメラで撮って映画にしたのはなぜなのだろう。中年になった主人公と青年期の主人公が出会うという現実にはあり得ない出来事を、フィクショナルな演劇空間の中で処理しているわけだが、ならばそのまま演劇にすればよい。緊密な会話劇だし、演出も的確で、俳優もうまい。舞台であればもっと緊密で、もっとスリリングになったはずだ。
世にグルメ映画は数あるが、この映画がそれらと決定的に違うのは料理のハウツーではないということ。芋やゴマ、セリやコゴメ、ナスやキュウリ、タケノコや山椒といった食材が画面を通してダイレクトに五感に語りかけてくる。何を語るかというと「生きること」を。それは「死ぬこと」と背中合わせだ。沢田研二の容姿はちっとも水上勉に似てないけれど、どこかに水上の影がある。畑と相談し、土を喰らい、生と死を想う魂に。松たか子との間に生じるほのかな色気とたしなみに。
愛した夫が事故死した後、別人だったと判明する。戸籍交換という題材から現代社会のさまざまな矛盾を浮き彫りにする平野啓一郎の小説を石川慶が映画化した。平野は1975年生まれ、石川は77年生まれで、脚本の向井康介、撮影の近藤龍人も同世代。自己同一性の揺らぎという現代文学の重要な主題を、この世代が極めてクリアにとらえている点が面白かった。脚本にも、演出にも、画面にも、60年代の日本映画のようなどろどろしたところがない。それがこの世代のリアルなのだろう。
若き日に傑作を手がけながら、そのプライドと恐怖心ゆえに、ずっと映画を撮れないままで時が過ぎ、今では風俗嬢のヒモになっているしがない中年の映画監督。その心情が横山雄二の脚本と加藤雅也の演技によってありありと描き出されている。舞台である広島のストリップ劇場と歓楽街がいい味を出していて、横山や佐々木心音ら劇場で生きる人々の哀歓が懐かしい。夢を語って女の気を引く中年監督のふがいなさ、だらしなさ、あせり、あきらめ、開き直り。どれも生々しい。
それぞれの役回りをわきまえた俳優陣が好演してはいるが、スターへの夢を捨てきれない一方、もはや本業ともいえる別の稼ぎで養育費は滞りなく払い続ける、どっちつかずの主人公の人物像が、こんなはずじゃなかった現在地の悲壮感も、あまりに能天気な幕切れの爽快感も、中途半端にしている。ギリギリやり直しの利くリアリティを求めた末かもしれないが、実世界では、言動の過ちに気づいたところで取り返しのつかぬものゆえ、フィクションと腹を括り、打開策を見出して欲しかった。
愛妻亡き後も、自ら育てた食材の素朴な持ち味を生かした手料理を振る舞い、見事な食いっぷりの若い恋人の訪問に心躍らせる初老の作家の山での暮らしが、男のロマンを凝縮させたユートピアのごとく、憧憬の念を込めて映し出される。死の影に導かれた身勝手にも思える選択さえ、彼が徹底してきた独特の人生観の一部として肯定的に捉えられるが、老いへの恐れや孤独の痛みのような負の代償めいたものが見えづらいためか、普遍的な感銘や情緒には、いまひとつ欠けている気もした。
経歴を偽っていた男性の死がもたらす、彼が築きたかった家庭と逃れられない血縁をめぐる愛憎劇としては、オーソドックスなミステリーの興趣が光る。それに並行する、自らの半生も重ねて真相究明に前のめりになる弁護士のドラマは、地に足つかない妻やその両親の描写の粗さなどに伴い、彼が夢見た理想の生活も、直面している現実との落差に対する苦悩や葛藤さえも、浅薄に映る。その結果、“Xとは自分自身ではないか”という哲学的な問答まで、空中分解してしまったように感じた。
“監督”と呼ばれるたびに、自尊心と劣等感とのあいだで引き裂かれ、ますます現場から遠ざかってしまう一発屋のしょぼくれた姿に、不遇に迷う幾多の人びとのイメージが重なり、胸がうずく。見境なく痴情に溺れる、いささか古風な趣の男女の悶着の狂乱の渦中で、公私混同を拒みプロ意識を貫く孤高のストリッパー役の佐々木心音が、凜々しく輝く。既視感を覚えるエンディングに、滅びの美学への自己陶酔にも似たシンパシーが透けて見え、気持ちは分からなくもないが、興醒めする。