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寺島しのぶや豊川悦司と肩を並べて、複雑な人物像にリアリティと尊厳を与えている広末涼子の好演には刮目させられた。60代後半にして今年5本の劇場公開作、配信作品も加えればそれ以上の量産体制にある廣木隆一は、題材的に無理をしていると感じる作品もあるが、この題材は本人的にもしっくりきているのではないか。しかし、瀬戸内寂聴の私生活にまったく興味が湧かないのは本作を観ても変わらず。不倫したけりゃ勝手にすればいいし、出家したけりゃ勝手にすればいい。
終盤のある展開までは驚くほど何も起こらない作品で、その終盤のある展開を経てもやはり驚くほど井上真央演じる主人公の佇まいは変わらない。母と娘の関係(それ自体は良く言えば「あるある」、悪く言えばありきたりなものだ)というより、そうした変わらなさの裏にある記憶の積み重ねや微かな心の動きを捉えることが本作の主題だとしたら、これはかなり野心的な作品なのではないか。容姿も性格もまったく似てない母の面影が娘の表情に浮き上がる瞬間にドキッとさせられる。
20代の若者が映画作りをテーマにして、半径5メートルの同棲相手との関係や仲間の肖像を、自分で脚本を書き、主役を演じて、フィックス長回しの画をひたすら繋いで135分の映画にする。タイトルは「夢半ば」。作中で準備中の作品のタイトルは「まだ行ける」。本当に不思議に思うのは、どうして他人がそこまで「自分」に興味を持ってくれると信じられるのだろう。仲間に観せるための映画ならばわかる。しかし、この主人公は自分が映画で「食えてない」ことを繰り返し嘆くのだ。
元「電通の花形クリエイター」(昔のイメージを引きずっていてすみません)を中心とする制作チームが、2022年にVシネマ時代の黒沢清作品のテイストと、その当時の黒沢作品(役からわざとらしさが抜けなくなった「クリーピー 偽りの隣人」以前)の香川照之のイメージをなぞっているのが素直に興味深い。シーンが変わってからもしばらくは本篇なのか劇中作品なのかわからない趣向も上手くいっている。構図がいちいちキマりすぎてるのが、観ていてちょっと恥ずかしかったけど。
阿吽の呼吸で性愛関係になる作家同士の女と男。瀬戸内寂聴がモデルの作家と、原一男のドキュメンタリー「全身小説家」の井上光晴。周囲の思惑など無頓着な2人と、すべてを承知で見て見ぬふりをする光晴の妻。それぞれが微妙な共犯関係にいる彼らに時代を滑り込ませていくが、作家とか文学界とかを抜きにすれば所詮世間にゴマンとある三角関係、寂聴の出家もスタンドプレーに見えたり。太宰治『斜陽』からの引用か、“青春は恋と革命よ”という台詞がくすぐったい。
母と娘の関係を大まかに言えば、年齢にもよるが、母親を絶対視するか、反面教師もしくは全否定するか、あるいは見て見ぬふりのいずれかで、それも時間とともに変化していく。本作のすでに夫のいる娘の場合は、同居を余儀なくされた母親の言動にいちいち鬱陶しさを感じていて、でも母親に正面きっては何も言えない。そんな微妙な感情を、母親を“陽”に、娘を“陰”ふうに描いていくが、子供時代のエピソードにしろ曖昧な描写が多く、なにやら娘の独り相撲を観ている気分。
長い。長過ぎる。いくら夢半ば、焦らず、めげず、諦めず、がモットーだとしても、冗漫な場面が多すぎる。映画が撮れない、何を撮ったらいいのかわからないという、自分の人生をまんま映画に仕立てた安楽涼の監督、脚本、主演のプライベートフィルム。町を延々と歩いたり、彼女や友人とのとりとめのないお喋りなど、確かに当人の日常なのだろうが、現実に対してはほとんど受け身で仲間たちも然り。そんな自分たちを肯定し、そっくり映画にしてしまうとは、安楽涼、かなりしたたかだ。
うわっ、鮮やか、おみごと、後を引く面白さ。瓦屋根の冒頭からそれに続く数シーンの種と仕掛けは、大袈裟ではなく、名マジシャンのトリックのように颯爽としていて、しかも当然大真面目。エキストラをしている宮松を種、おっと軸にして、その撮影場面を、映画でよく使われる“夢オチ”つまり主人公の妄想、幻想ふうにつなげているのだが、監督集団〈5月〉の方々の語り口、実に素晴らしい。ロープウェイの場面も効果的。宮松が山下になってからの香川照之のゆれる表情に降参。
東京駅でよく作務衣姿の尼さんとすれ違うが、いつもインパクトを受ける。普通の中年女性だが、あの頭、もうそれだけで髪は女の命、だとかいう慣習的容貌から頭抜けた存在感で、ああ反=俗世の何かだな、と感じる。メディアで見る代表的尼僧ビジュアルは瀬戸内寂聴氏だったが流通する氏の姿はもはや一種記号化された、波瀾万丈の後の凪だった。そこを剃り跡青く生々しく艶めかしい、なぜそうなったかというところまで投げ返すのが本作であり、演じた寺島しのぶ氏。
石田えり氏演じる母親が全然因業じゃないというのがまた根深い。築山御前くらいのあからさまな毒親なら話ははっきりするが。井上真央氏演じる娘も自分が悪いと思うわな。また、子が男ならこういうことにもならないかも知れない。男は家を離れるものであるとか、親を厭うことも許されるというような、女の子は逆らうものじゃないという、親子関係、子の親への態度の男女格差問題もあるかもしれない。しかし親になってみればそういう物言いになることもわかるところもあって。
かつて聞いた脚本執筆の訓練法・書き出すための呼び水、というので日常をずっと全部書き出していくというのがあった。起き出して家を出て歩いて、を全部書いてみろと。それとは違うかもしれないが、日常を見据え、どんどん撮影回すことから始める可能性を本作に感じた。とりとめなさを補って余りあるリアルさや、歩いてゆく人物(監督自身)の背を追う画に乗る自意識、そのやむにやまれずやってる感は好きだ。この漂いはいずれ凝縮して発光する恒星となるのではないか。
そうじゃない。以前この欄で役者をやっている若者の群像劇を評したときにも感じた。出番がないとか、端役であるとかいう彼らが茫洋としているのは認識の誤りというか、そうでなく水面下で足掻く者をしか私は認めぬ。そして香川照之氏。かつて足掻いていた。熱かった。静ドン、黒沢清Vシネの彼を忘れない。だが驕ったか。スコセッシ「沈黙」を降ろされてからやり直した、亡くなるまでの隆大介氏は素晴しかった。香川氏もまた戻って足掻けばいい。ここではないあの場所で。