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主人公の女の人が何か事故にあって、記憶喪失になるところから話が始まる。彼女の身の回りでどんどん奇妙なことが起こっていく。彼女がエレベーターに入っていくだけでなんか怖い。何が起こるか分からないワクワクがある。いくつもの伏線が張り巡らされていて、え!そうだったの!の連続。そのうち、バカにされている気がしてちょっとムカついてくる。作り手は全部知っていて、見ている方は何も分からないのだ。面白いけど、なんだよそれ!卑怯だよ!という気持ちにもなる。
ゲイのふりを続けてきた男が、断りきれずに仲間に連れて行かれて、行った先の男たちがゲイ狩りのヤバイやつらで、急に自分のキャラクターを変えて、なんとか難を逃れるところとかおもろい。彼らがゲイであることが物語を豊かにしている。ならではのエピソードが次から次へと絡まっていって、先が読めない面白さがある。矯正施設にぶち込まれて、男女のエロい映像を強制的に見せられるとことか笑えない哀しさもある。途中から水球の話がどっか行っちゃってるのはどうだろう。
独身最後のスペイン旅行。男三人のイチャイチャぶりが目に余る。冗談みたいに携帯電話を捨てるとことか、ホント子どもみたいで、男子はいつまでたってもアホやなと思う。美女との出会い。恋の予感。一気に旅が華やかになる。彼女が潑剌としていてとても可愛い。スキューバダイビングの海もスカイダイビングの空もとにかく明るくて美しい。トマト祭りに牛追い祭り。観光映画としてもちゃんとしてる。初めてのスキューバダイビングで、感動のあまり涙を流す男の顔がいい。
棒の先に刃物がついているような変な道具が動き出し、牛を盗む。そしてヘリコプターみたいにくるくる回って飛んでいく。この変なものは喋るし、液体を吐き出したりもする。蘇った死者は普通に飯食ってるし、サウナにも入る。サウナに入ったらでかい鶏になる。よく分からんがおもろい。ヒロインの女子の美しいこと。好きになった男子は別の娘が好き。彼女は雪の中を裸で悶絶する。一晩中見つめあって、朝まで動かない男子と女子。黒いショール越しのキス。美しくてたまらん。
主人公スジンとその夫と名乗る男。ふたりが一体どんな関係なのか、男は一体どんな人物なのか、スジンの失われた記憶を紐解きながら物語が展開される。同じマンションに住む女の子たち、そしてスジンに見えてしまう「ちょっと先の未来のできごと」に関する謎が明かされていくところが、なるほどと思わず唸らされる。スジンと夫が暮らす家が、モデルルームのような生活感のない部屋なのがとても恐ろしさを感じた。友人女性や刑事の存在感が薄くてちょっと惜しい。
それぞれのキャラクターが個性豊かで生き生きとしていて基本的にどのシーンもテンションが高い。シャイニー・シュリンプスのメンバーが道中、同性愛者を矯正しようとする国家レベルでの弾圧に巻き込まれる。“正しい家族のあり方”を説教してくるシーンでの文言は日本で最近見たような? かなりコミカルに描いているが、LGBTQ+への差別的な発言をしている人たちがトップに立ってしまっているこの国では必見なのでは。デイヴィッド・ボウイの曲が世界観にはまっている。
とにかく旅がしたくなる。バチェラーパーティーならバチェラートリップを見ながら、こういう旅が今後できる日が来るのだろうかなどと考える。3人がふざけている感じが妙に息が合っていて、つい笑ってしまう。本作公開でインドからスペインへの旅行者が増えたそうだが、トマト祭りや牛追い祭りなどのシーンも見応えがある。コロナ以降、海外へようやく行けるようになってきたとはいえ、以前よりもまだハードルが高い。この映画で感じる開放感をリアルに感じたい。
人間たち、動物たち、死者たち、そして得体の知れない使い魔。そんな者たちがモノクロームの世界で生きている。あるいは死んでいる。最初の牛が空中に持ち上げられるシーンから心を鷲摑みにされた。とにかく全篇を通してうっとりするほど美しく、さまざまな叫び声が聞こえてときに恐ろしく、光の合間に魂が透けて見えるようでつい目を凝らしてしまう。登場人物たちの表情も素晴らしい。何度でも見たくなるタイプの映画だ。ラストシーンまで片時も目が離せない。
配給・宣伝会社からラスト30分の内容については口を噤むよう言われている。詳細は控えるが、「ガス灯」(44)やら「断崖」(41)やらを想起させる前半のサスペンスはメロドラマをお膳立てするための前座にすぎない、ということだ。冒頭で、記憶をなくした妻が夫に訊いている。「私に告白したのはいつ?」「告白はできなかった。結婚式の日も」車椅子に座る妻とそれを押す夫。同じ方向を向いた2人が切り返しで撮られる。その意味が分かるのはすべてを見終えてからである。
主題は前作同様ホモフォビアの克服だが、今回はゲイ当事者自身がそれを内面化する、規範への同一化に焦点が当てられている。だが、マグレブ系移民コミュニティに顕著なホモフォビアが特に取り上げられ、人種的偏見への配慮を欠いたまま問題が設定される点に疑問が残る。また何の関係もないのに舞台はロシア、西欧に根付くルソフォビアが利用される。アラブとロシアの2つを外部として位置付けることで、問題含みであるはずのフランス社会が不問に付される。問題なしとはしない。
いわゆるバチェラー・パーティ映画は、いま脚本家にとって一番挑戦しがいのある題材だと思う。家父長制と異性愛規範に基づく結婚制度を前提に、マチズモにミソジニーから性的搾取までが跋扈し、現在問題視されているものがことごとく凝縮して詰め込められているからだ。それらをどう料理するかで自分の腕前を披露できるわけである。本作はバチェラー・パーティにつきものの性的放蕩をダイビングやお祭りに置き換えながら、性とジェンダーの規範を温存させているだけだ。
雪景色と狼。長髪の少女。ハイコントラストなモノクロの映像。「マルケータ・ラザロヴァー」(67)の明白な影響下に撮られた1作。つまり本作もヴラーチル作品と同じく絵コンテの実現であり、アニメーションとの親和性が高いのはそれゆえだ。干し草や廃材から作られるクラットが動き出すには悪魔と契約して「魂」を得る必要がある。アニメーションの語源は魂や命を意味する「アニマ」から来ているわけで、監督はエストニアの神話の中にあたかも映画の起源を見つけたかのようだ。