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27年前、親たちが帰せなかった宇宙船を子供たちが帰す。因果話なら子供が親と同じAIに出会うのを偶然にしてはダメだし、約束を果たせなかった親の罪悪感や子供と再びそれに向き合う心情も描くべき。物語の説明は不必要に丁寧だが、映画で描かれた以外の時間が見えない。各キャラも似通っているし、薄い対立と葛藤が主旋律の物語に回収されず、すべてがユルい。主舞台の団地がなんのメタファーにもなっていないのも痛い。そういうドラマ作りが今っぽいと言われたら、それまでだけど。
ピンク四天王から30年。良くも悪くもサトウさんは変わらない。都市という開かれた空間の中での閉塞感。何者でもないまま歳を重ねることへの焦りと苛立ち。瀬々さんがメジャーでかつてのテーマを必死に焼き直そうとしている時に、これでいいのかと正直思った。30年前の映画と言われても通じる語り口。同じ歌を歌い続けるのは悪くない。でも昔はあったヒリヒリ感が欠けている。せめて主人公がスマホで何を見ているか知りたかった。これは本当にサトウさんが今撮りたかった映画だろうか。
75年前の原作を48年前の脚本で今映画化する意味があるのだろうか、と恐る恐る観る。脚色で言えば、母との話を薄く、小説家を濃くして、実際に子供を産ませたことはさすがだと思った。しかし、その子が死んだ小説家と弟の生まれ変わりだというラストのナレーションで、戦後すぐ婚外子を産むことが私の革命だという原作の精神が台なしに。聞けば、そこは監督が書き足したという。逆に時代錯誤だし。手堅いだけの演出で映画的躍動はゼロ。白坂&増村のホンのまま、増村演出で観たかった。
「資本主義と家父長制社会に潜む悲劇とその果てにある希望」を描いて成功していると思う。俵謙太による撮影もいいし、俳優への目配りもいい。しかし一点だけどうしても気になる。祷キララの両親は刑事と戦場ジャーナリスト。リベラルな母は警察となんか結婚するだろうか。敢えてそうするなら、その枷を活かさないと。戦場で死んだ妻に似てリベラルな娘にかける言葉はあれだろうか。結婚もまた闇というなら、あまりにご都合ではないか。海外の人は気にならないのだろうか。もったいない。
2049年という近未来の物語の舞台のモデルとなったのは、2013年に取り壊された東京・杉並の阿佐ヶ谷住宅。高度成長期に建てられた団地の懐かしい風景が、進化した端末や人工知能搭載のロボットが登場する近未来世界の中で、一段と郷愁をそそるのが面白い。難破した宇宙船の帰還を助けるという親世代が果たせなかった夢を子どもたちが叶えようとする、そこに「よあけ」を見る、というのがいかにも今の日本の停滞感を反映しているようで、センチメンタルではあるけれど。
野球場でカツオのたたきを肴に焼酎をラッパ飲みする影山祐子。その自然なたたずまいから、最後まで目が離せなかった。ふらふらと男についていったり、雨の中をバイクでタンデムしたりするが、行動原理はまっすぐなのだ。自分に正直で、嘘をつかない。さすらいの末に渋谷の街頭に立つ姿は殺された東電OLを連想させるけれど、その心映えのすがすがしさが、あの被害者への偏見を吹き飛ばす。「ふわふわと漂う」ことへの意志を大いに肯定したくなる。サトウトシキの新たな快作。
華族の没落というほとんど1940年代後半に固有のテーマを今どう描くか。70年代に脚本を書いた増村保造と白坂依志夫の意図はわからないが、近藤明男監督が丁寧に撮ったこの作品を見る限り、さほど奇を衒っているとは思えない。予算の制約のせいか戦後混乱期の風俗がどこか作り物めいている中で、最後の貴族の気品と退廃を表現した水野真紀に存在感がある。一方でシングルマザーとして生きる決意をする主人公の「革命」が霞んで見えるのは、時の流れなのだろうか。
目線は低く、志は高く、を地で行くような山﨑樹一郎の力作。冒頭の採石場の爆破シーンからサイレントスタンディングの街角まで、岡山県真庭市という土地に根付いた監督が、自信をもってカメラの位置を決め、俳優を動かし、風景をとらえているのがわかる。どのショットにも借り物めいたところがないのだ。それでいて、この山間の町でささやかに暮らす二つの家族の物語は、韓国、中東、そして世界へと視界を広げていく。分断され、金に支配され、弱者が虐げられる非情の世界へと。
意思や思考力をも育んでいく優等生キャラの家庭用ロボットの変貌や、約束事に忠実な“謎の存在”の律儀さが、進化を続ける人工知能の柔軟な可能性を示唆する。その反面、いじめっ子が瞬時にいじめられっ子に転じてしまう人間の進歩のなさが際立ち、双方の確執にも安易な解決を認めないところに、社会を冷静に見通す作り手の洞察が光る。人工知能と共生する未来の明暗も、子どもから大人になるにつれ大切な何かまで失いがちな人類次第と痛感させられる、いささか教訓めいた冒険譚。
家庭の事情も絡み、自己否定をこじらせ昼間から呑んだくれる人妻の前に、そんな彼女のありのままを肯定してくれる、オートバイに乗った王子様が現れる。いささかトウが立った“ボーイ・ミーツ・ガール”に湧き起こるときめきは、若者同士には存在しないしがらみのようなもので徐々に澱み、“遊び”と“本気”のあいだで揺れる男女の苦悩に変わる。思春期の娘までいる男性側に立てばホラー風の展開を、常にほろ酔いの女性の視点に徹することで、ビターなファンタジーに昇華させた巧篇。
舞台の伊豆と東京でカラーを変えているが、ベートーヴェン《悲愴》の力を借りても淡白気味に映る一夜限りの情事を含む東京の情景よりも、流刑地のごとき伊豆の場面に強度を感じるのは、演出の意図なのか。人間失格であれ、かず子に子を産みたいと切望させる、太宰の分身でもある上原の才能だけは本物であって然るべきと思うが、取り巻き連中の空虚な議論からは、作り手が彼を評価しているように見えないのも難。原作に色濃いデカダンスを一身に背負う、水野真紀の妙演は印象的。
志の高い作品であるとは思う。ただ、主人公のひとりである女子高生が、名前からして象徴的な存在であるがゆえに、日本の不穏な気配漂う現状を反映させた、彼女の日常をめぐるさまざまな社会的・政治的トピックに対する考察や問いかけも、漠然たる啓発や警鐘に留まり、いまひとつ胸に迫ってこない。強引にふたりを結びつけるくらいなら、夢破れて日本に流れ着いた韓国人男性に焦点を絞り、周囲に翻弄され続ける彼の半生を掘り下げた方が、主題にも深く踏み込めたのではないか。