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ダイアナがいかれてる。行事は全部遅刻する。トイレで吐きまくる。旦那を睨みつける。苛立って周りに不満をぶつける。好きになれないキャラクターだ。自由にできない場所にいるんだからしょーがないでしょとツッコミを入れる。一人ぼっちで、何とか耐えようと小さな抵抗を続けるダイアナの孤独。もっともっと乱暴になればいいのにと思ってしまう。子ども達といるときだけ、彼女はのびのびと明るい。唯一味方になる女の人が、いきなり告白して、びっくりするダイアナが可愛かった。
3時間近くあるが全く飽きない。次から次へと何かが起きる。敵と味方が知らずに友だちになって、やがて敵対していく。どっちの男も基本的にものすごくいい奴で、いろんなことを背負って、好きには生きられない。もどかしい。アクションがいちいち手が込んでいて楽しい。絶対に退屈させないぞという意地を感じる。それにしても男たちは、なかなか死なない。メチャクチャになっても最後は何とか生きている。笑ってしまう。ヒロインも可愛いだけじゃなくて、どこか芯が強くていい。
不在の人をめぐる話。AIロボットのヤンが、物静かでいい奴っぽくて好感が持てる。いなくなった後で知るヤンの記憶の数々。数秒という短さが逆に想像を掻き立てる。今はもういないという事実が効いている。いなくなって空いた気持ちの穴をどう埋めていくのか。家族の再生とともに描かれていく。記憶の中の彼女。テンションが上がる。AIロボットも恋をするのか。その女子が登場するたび、キュンキュンする。大した事件は起きない。少しずつ謎が解けていく面白さがある。
いろんな国のいろんなうんこ事情がわかりやすく語られる。ゾウは一日どれぐらい排泄して、それが一年ではこれぐらいだとか。うんこを再利用して、こんなこともやってますの例も全然知らなかったから勉強になった。それ以上の突っ込みがあんまりない。なぜ監督が、このドキュメンタリーを作りたいと思ったのかボンヤリしている。啓蒙なら映画じゃなくてもいいのではと思ってしまう。ナレーションのオンパレードも辟易する。うんこうんこと連呼するだけでは何にも面白くない。
ポスタービジュアルから非常に気になっていた作品。これまでパブロ・ラライン監督作品における批評性に惹きつけられ、驚かされてきた。クリステン・スチュワート演じるダイアナの潤んで少し充血した瞳など、生身の生きた女性の姿に胸が締め付けられる。一方で、他の王室の人間たちのまるで幽霊のような気味の悪さときたら。異質な存在であるダイアナが「おかしい」とされるものの、見ていておかしいのはどちらか。人間でいるために闘うダイアナは美しい。ラストシーンも必見。
今日に始まったことではないのだが、どのようにこの手のボリウッドを楽しめばいいのかずっと考えていて、困惑している。1920年代の話とはいえ、白人による人種差別、大義名分のための闘争、男は強く女子どもは守られものというジェンダーロールなど、白黒きっぱりと別れた世界観やプロパガンダになりかねない映画というものを純粋に楽しむことがもうできない。ただ、画面から迸る熱量には圧倒されるものがある。総製作費97億円というスケール感にはただただ驚かされる。
AIロボットのヤンに記録された数秒の映像の積み重ねを見るというという、非常に繊細ながらも大胆な手法で、ある家族の姿を浮かび上がらせる。誰もいない美術館で、インスタレーションを見ている感覚に近いのかもしれない。誰かの記憶とは、映像とは、根本的に切ないものなのだ。映画好きのためのしかけがちりばめられているが、知らなければ楽しめないということもなく開かれている。「リリイシュシュ」の曲をまさかこんなふうに聴くことになるとは。サントラを買ったのが懐かしい。
テンポよくあっという間に終わってしまう印象だったけれど、内容は充実していて見応えある作品だった。下水道の発明がいかにありがたいものであったのかしみじみ考えさせられる。トイレ事情という点では、日本は先進国であることは間違いない。だが世界に少し目を向けたらどうか。問題点だけでなく再利用法などについても触れられ幅広く学びが多い一方で、情報過多のため少々消化不良気味。以前はおならについてのドキュメンタリーを撮っているそうで、それもちょっと見てみたい。
クリスマス。衣裳も小道具もすべてが決められた食事会。夫曰く「決められたことを決められた通りの順番で行うこと」。つまりこれは演劇である。だが、緞帳は重く閉じられたままだ。ダイアナはそんな観客のいない舞台で演じられるお芝居に耐えられないわけだ。しかし、演劇空間を設定し、そこに「影響下の女」を配置する趣向は理解できるが、「こわれゆく女」(74)や「オープニング・ナイト」(77)とはやはり別物の赴き。カサヴェテスは何を成し遂げたのか。改めて考えている。
かなり楽しんで見た(インド映画をよく知らないので、これがいつも通りの面白さなのか、それとも規格外の面白さなのかはわからないのだが)。歌あり、踊りあり、アクションあり、ラブストーリーありの全部のせ。マルチバースだなんだと設定をいたずらに複雑にしなくても娯楽は成り立つようだと思わせる。ただ、暴力より歌だという気付きを得るわりには暴力による解決だし、民衆全員に武器をというわりには結局2人の超人の力ですべてをなぎ倒すじゃないかと、頭の片隅で思いつつ。
私はいまでもアントニオーニの「欲望」(67)の教訓は有効だと考えている。映像をいくら虚心に見つめようとも謎が解明することはなく、そこに現れるのは映像の物質性でしかないのだ。この映画はあたかも故人の残したスマホを解析すれば、その人の人生がわかるとでもいうようである。行動にはかならず原因があり、記憶の奥底にしまわれた過去の経験を探っていけば、不可解なことは解き明かされる。映像は透明であり、その意味は自明である。AIを口実にした、美学的な後退の実現。
楽しく勉強できる教養番組。日本語の「大きい方」みたいな言い方が、英語だと「ナンバー・ツー」というのも面白かった。邦題も「うんち」にするか「うんこ」にするかで迷ったはずと推測するが、「ウンチク」という言葉遊びを思いつき、タイトルに「うんち」、サブタイトルに「うんこ」と両方入れる荒技が可能になったのだろう。両方「うんち」で揃えた方がいいのではないかという意見もあったと思う。「うんこ」を入れることにこだわったのは、某漢字ドリルの影響かもしれない。