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今号のドキュメンタリー2本を観て、久しぶりに映画とは何かを考えた。吉増剛造のライブを延々1時間見せるなんてテレビじゃ出来ないから、そういう意味じゃ映画なんだろう。しかし、七里さんが意図したように、限定されたアングルで捉えられたライブの背後に果たして映っていない何かはあったろうか。吉増の「詩とは何か」に答えられるだけの「映画とは何か」があったろうか。オンライン試写で観て、何度も寝て、その度に戻った。劇場だったらとゾッとする。お金出しては観ないけど。
いや、知らないものを知るのは楽しいから、そういう意味では面白いのだ。何の興味もなかった木樵という職業。切ることより、出す(運ぶ)ことの方が大変なこと。伐採により森を育てること。勉強になる。でも映画として何かが決定的に足りない。主人公が木を森から出す、途絶えそうなその技術をもう少し分かるように撮れなかったか。主人公にドラマがなければ、もう少し視野を広げ、総花的に林業の今昔を見せても良かったのでは。一番映画的なシーンが、ウリ坊の絞首刑では悲し過ぎる。
手垢のついたタイムループもので手垢=同種の映画を前提に、そこからの脱出を描くなんて、なかなか憎いことやる。繰り返す日常を会社生活のメタファーにしたところも上手い。タイムループを直属の上司から順に分からせ、一番上まで持っていくのも会社組織を皮肉って面白い。繰り返す日常の見せ方にも工夫があるし、ほぼ知らなかった俳優陣もみな魅力的。しかし傑作になり損ねているのは登場人物の価値観が会社内に留まっているからか。会社なんてクソ喰らえ的な生き様が見たかった。
理髪店が舞台ということは、そこを軸に物語が展開していくと思うがそうではない。各エピソードが有機的に結びつかず、寂びれた炭鉱町も浮かび上がらない。「みんなが仲良く暮らせる偏見のない町作り」と夢語る息子はさっさと東京へ戻っていくが、せめて田舎に絶望してくれ。劇中のご当地ロケ映画の完成披露で、ツラマナイと声が上がるが、この映画をロケ地で見せて、そう言われなければいいけど。あ、その映画が賞獲った。あんなのじゃ獲れないし。その安易さがすべてを象徴している。
吉増剛造の生原稿を読んだことがある。緑色のボールペンで書かれた、のたうつような細い字だった。その字を追うだけで、別世界に吸い込まれるような感覚に襲われた。この映画を見て、あの感覚を思い出した。詩人がガラスに何かを描きつけている。何を描いているのか、どんな表情なのか、よくわからない。通常のドキュメンタリーが追うようなものは、ろくに追っていない。映っているのは気配、音、そこから醸し出される不穏な何か。七里圭は言葉にならない何かを撮ろうとしている。
DX(デジタルトランスフォーメーション)がかまびすしいご時世に「技術の伝承」の意義を説くことはとても難しい。この映画はそんな困難に果敢に挑んでいる。山を荒らすことなく、木を一本一本切り倒し、架線を引いて運び出す。その手つきをひたすら撮ることで、仕事の意味を考えさせる。木材価格が30年前の4分の1となったというが、儲からなければやめる、とは簡単にいかない仕事もある。ノスタルジーではなく、今を生きる人々の生活がちゃんと映っているのもいい。
月曜の朝に泊まり明けばかり、仕事もせずに精神論をぶつ上司、ピラミッド型の硬直した組織……。時代遅れのクリシェをちりばめたクソ仕事ばかりの職場だが、タイムループからの脱出という共通の目標ができたことで、がぜん活気づく。「同じ場所で足踏みしているような人とは違うんです」という不遜な主人公も成長し、同僚の自己実現に力を貸す。旧来の日本型組織を茶化しつつも、否定せず、愛着をもって描いているところは面白い。いささか湿っぽく、映画的スリルには欠けるけれど。
登場人物たちがこともなく「チクサワ」と言うので、どこのことかと思ったら「筑沢」という架空の町だった。寂れたとはいえそこそこの規模の市に見えるが、出てくる住民同士はほとんど知り合い。ファンタジーとしてはありなのかもしれないが、リアリティーは薄く、この町が具体像を結ばない。町こそが主役なのに。ただ「沈みゆく船だから、子どもたちを救いたい」という住民の声は、人口減少に悩む地方都市に住む人々の本音に違いない。そういう意味で真摯な町おこし映画。
冒頭を飾る、ガラスに描かれたドローイングの塗料を丹念に洗浄していく作業から、流動的な水ものでもあるパフォーマンスに対する吉増氏のスタンスや、そこでのガラスの多彩な役割や重要性がさりげなく示され、続くライヴ鑑賞の手引きにもなっている。空間現代の演奏する姿を敢えてカメラの枠外に押しやることで、“背”の何たるかが強く意識されるとともに、ガラスを挟み自在に飛び交いぶつかり合う言葉と音が混然一体となり、“詩”の定義をもパワフルに粉砕し問い直す意欲作。
家業を継がず映画の道を選んだ監督の過去が本作の出発点であるのなら、木樵として憧れていた実父との関係性や、自身とは対照的に約半世紀も林業一筋の兄弟に惹かれる理由なども、もう少し明らかにするべきだったのでは。山を荒らさぬように架線を引き木材を運び出す工程は、準備段階も含めて圧巻だが、道路の移転先に決まり、70年も超然と根づいてきたメタセコイアにチェーンソーの刃を入れる場面以外は、似たような伐倒の光景が続き、映像的に単調に見せない工夫の必要性も感じた。
あまたあるタイムループものの構造を分析しつつ換骨奪胎し、違う景色へ導かんとする意欲は買い。モブキャラの逆襲とばかりに、隅っこに追いやられがちな人物の密かな好アシストが地道に突破口を広げるにつれ、各々の個性や力量が発揮されていくさまも、主人公目線な同ジャンルのパロディ的面白みを醸す。ただ、ループのきっかけを生む部長の秘密には唐突な印象は否めず、広告業界のブラックさをさらに突き詰めるなど、ひとつのアイデアで押し切る潔さが欲しかった気もする。
刺激に乏しい過疎の町を、映画の撮影から詐欺事件の容疑者の潜伏まで、さまざまな騒動が襲う傍ら、それでも変わることのない、自虐もその裏返しに見える地元民の、あまのじゃくな郷土愛が脈打つ。いつ消えるか知れない町に留まり、その覚悟も胸に日々を過ごす現在の情景が、好演揃いのキャストに現地の方々も交え、既にノスタルジーの対象のごとく捉えられるエンディングは、その笑顔のまぶしさに、今日あるものも明日あるとは限らぬ示唆のようにも映り、複雑な感慨が湧く。